河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

早稲田・慶応・応援歌合戦

2020-05-18 13:11:38 | 音楽
早慶戦・・早稲田と慶応との野球の対戦をそう呼びますね。
早慶戦はどんな経緯でいつから始まったのでしょう?
それは1903年(明治36年)に始まったそうです。

そこからが実に面白い。
応援団があまりにも熱くなり過ぎて過熱もいいとこ、
一触即発の険悪な状況になり、
事態の悪化を危惧した両校は、その後の試合を中止、
1906年(明治39年)を最後に、
早慶戦は長い空白期間に入ったのです。

試合に勝った早稲田大学応援団が、
慶応大学正門前で早稲田の校歌を歌い気勢を上げたり、
両校の関係は悪化の一途でもはや関係修復は不可能と思われていました。
他の大学から関係復活の働きかけなどあったのですが、
両校の溝は深まるばかり、
強硬な態度は如何ともしがたく、復活は出来ませんでした。

しかし、日本野球の父と呼ばれ、早稲田大学野球部の創設者である、
安部磯雄氏が、早慶戦の意義と応援のマナーの遵守など、
両校に自制を求め、19年ぶりに早慶戦が復活したのでした。

【一時間耐久】慶應義塾 應援歌「若き血」


それは1925年(昭和元年)の事でした。
そして、翌1926年(昭和2年)
堀内敬三が29歳で作詞、作曲の応援歌「若き血」がデビューしました。

この応援歌は素晴らしく、
慶応大学を奮い立たせるには物凄いパワーがあったのでしょうね。
しかし、早稲田大学には応援歌がありません。
(♬都の西北)の校歌で対抗するしかありませんでした。

これはまずい。このままではダメだと応援団は考えました。
慶応の応援歌に対抗するには、それに敵う応援歌を作るしかない。
考えた末に、といっても資金は無いのです。
早稲田の在校生から詞を募集し、
それに合格した詞を誰かに作曲して貰おうと行き着いたのが、
古関裕而でした。



その頃、早稲田大学に在籍し、古関裕而と親交のあった、
後の有名歌手・伊藤久男が古関裕而に頼んでみようとなりました。
その頃の古関裕而はコロムビアの専属作曲家ではありましたが、
まるでヒット曲を作る事ができずに不遇を囲っていました。
そんな時にの応援歌作曲依頼。



しかし古関裕而が21歳で作曲した早稲田大学応援歌「紺碧の空」は、
彼が初めて世に名前を売った曲になったのでした。

紺碧の空


さて、皆さんはどっちの応援歌が好きでしょうか?


(追伸)

フェイスブック友達より、
早稲田の応援歌を古関裕而に依頼したのは、
福島県・本宮市の酒蔵・大天狗の2代目社長の弟さん、
その方は早稲田大学応援部の幹部だった方です、という書き込みがありました。
歌手の伊藤久男ではなかったという訳ですね。
その辺りの事を詳しくご存じの方がいらしたら是非コメント宜しくお願いします。





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コロナ自粛生活

2020-05-17 21:45:37 | 日記
新型コロナウィルスがニュースになり始めたのは2月だったか?
正確な日付が記憶にないうちに、
そう、あれは横浜港に停泊するクルーズ船から、始まったみたいでしたね。

最初はその船のニュースばかりだったのに、
コロナ感染はあれよあれよという間に市中に広まり、
対岸の火事、他人事などと呑気な事は言えなくなっていました。

私達夫婦が歌声喫茶に行った最後は、
2月18日(火)国立の天笑楽の歌声喫茶でした。
本来だったら、それから5日後の23日(日)に、
歌声仲間が企画し主催するビックイベント、
「Mさんの生前葬」が行われる予定で、私は当日の動画撮影担当だったのです。
しかし、参加者から「コロナの為に参加できない」という電話が、
Mさんにかかってきて、以後そういった電話が数本入り、
悩みに悩んだ末にMさんは断腸の思いでイベント中止をせざるを得なくなりました。

生前葬だなんて何と奇抜な事を考え出すのだと、
普段のMさんを知る私達は、もう何度も人を驚かす企画を立ち上げる人ですから、
今回もまた、楽しさいっぱいのお祭り騒ぎになるなと楽しみにしていたのです。
ですから(中止)の連絡を受けた時には本当にガッカリしました。



それからというもの、
何処もかしこも軒並みに歌声喫茶中止の連絡ばかり。
何処にも行かれず、歌を忘れたカナリア状態の我々歌仲間は、
我慢が出来ずに、
3月3日(火)に、11名で集まってカラオケに行き唄いました。
今だったら密室、換気は悪い、濃厚接触のカラオケは悪者扱い。

カラオケが終わった後は、予約してあった小料理屋での飲み会。
全員が気ごころ知れた親しい関係なので、とっても楽しかったのです。
でも、それが本当に最後の、仲間たちとの別れでした。
いえ、またコロナが終わったら復活しますが、
先の見えない状況下では、最後になったのでした。

3月14日(土)
東日本大震災支援・ともしび松戸の歌声・中止。
3月25(水)~26(木)
横浜の歌声喫茶(星と涼風)主催、下田の歌声1泊旅行中止。
楽しい歌声イベントが相次いで中止の憂き目を見て、
主催者、参加予定者はみな首うなだれざるを得ませんでした。
本当に残念でやり切れない気持ちです。

でも、歌声喫茶がダメでも、
私達夫婦にはキャンプがある。
と心にはまだゆとりを感じていたのです。
ところが、5月のGWに予約をしていたキャンプ場から、ある日電話が・・
「申し訳ないのですが、このコロナ騒ぎでキャンプ場を閉めざるをえない」との事。
これには、本当に驚きました。
だってキャンプ場は青天井でコロナとは無関係でしょ。
でも、よく考えると、
キャンプ場の炊事場、トイレではコロナ感染はあり得ると気づきました。

そうなると、どうすればいいの?
どうにもならないのです。
あれもこれも、全てを諦めざるを得ないのです。



ただ、そんな中で唯一、3月に2泊3日で行ったキャンプ。
例年だったらキャンプは4月になってからだったのですが、
一昨年が天候があまりに悪く、たった1回だけしかキャンプに行かれなかった反動で、
もう我慢も限界と寒いのは承知で西湖に行ったのですが、
今にして思うと、それがもし無かったら、私達はまったく悲惨な事になっていました。


私は4月に入ってすぐに自粛生活を始めました。
ですからもう、1ヵ月半というもの、
チョッとした買い物と、最近また通いだした歯医者に行く以外は、
何処にも行きません、というか一歩も外に出ない日々です。
最近、39の県が自粛解除になりましたが、
首都圏は相変わらず解禁されてはいませんね。

これで政府から全都道府県一斉解除となっても、
私は自己判断で外に出るか出ないかは決めるつもりです。
だって、あんな馬鹿としか言い様のない首相達の言う事などまともに聞いていたら、
命がいくつあっても足りないと思っていますから。

数日前、今バカ売れしてるという本を買ってきました。
カミュの「ペスト」と、
毎日テレビで観ない日はないという、
岡田晴恵氏の「怖くて眠れなくなる感染症」
2冊とも、きっと本屋さんで注文しなければ無いだろうと行ったのですが、
予想は外れ、山積み状態、というと大袈裟ですが、充分にありました。

カミュは若い頃、何の本だったか少し読んだ記憶があります。
そしてそれは、カミュはチョッと読みにくい作家だなといった思いが残っていました。
で、今回の「ペスト」も、
先がどうなるのかだけが気になる人にとっては、きっとイラつくでしょう。
と言うのは、哲学的な人物描写、精神的な描写が延々と続く部分があり、
結末だけに気を奪われていると、長いと感じるかも知れません。
カミュは大学で哲学を専攻した人ですから、それはそうなんでしょうね。
そういった部分がノーベル文学賞となったのかも知れません。

しかし、ペストにより9か月間の都市閉鎖に追い込まれた、
北アフリカ・アルジェリアの街、オラン。
これは架空の話で済まされない今の日本の状況。
その怖さ、恐ろしさがヒシヒシと感じられます。

ですから、政府が勝手に解禁と言おうが、
私はそんなもの簡単に信じる訳にはいかないよと思っています。


しかし、9か月ではないけど、長いよね。
もう本当にコロナは終わって欲しいと、心から願っています。





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大陸移動説

2020-05-12 19:47:10 | 日記


1973年に、小松左京原作の映画「日本沈没」が封切られました。
私も映画館に観に行ったのですが、
そのリアルさに「日本は本当に沈没するんじゃないか」
などと思い、怖くなった記憶があります。



その映画の中で地質学者(?)の小林桂樹が、
政界の大御所(?)の島田正吾から、
「科学者にとって一番大事なものは何かね?」と訊かれ、
小林桂樹が「それは勘です」と即答します。

彼が新聞紙を引きちぎって例え話にするのが、大陸移動説でした。
「この2つの新聞紙は、こうして合わせると1枚になる。」
「しかし、別々にある紙が最初は同じだった事は誰にも分らない」



大陸移動説を最初に提唱したのは、
ドイツの気象学者であり、地球物理学者のヴェーゲナーでした。
彼は1912年(32歳)フランクフルトで行われた地質学会で、
大陸移動説を発表しました。

ヴェーゲナーは、地質や生物の化石の分布などの証拠を集め、
仮説に辿り着いたのですが、
エネルギー源が説明できず、奇想天外として受け入れられなかったのです。

ヴェーゲナーは、南米大陸とアフリカ大陸の形状が
一致する事を挙げたのですが、
それ以前、1596年、1620年にも同じ事を言っている人がいました。

しかし、それらとヴェーゲナーが提唱した説は、
詳細度や学術的正確性など、はっきりと異なったものでした。





この説は賛否両論ありましたが、
否定的な研究者たちからは彼は感情的に批判されました。
最大の弱点は移動のエネルギー源が解らなかったからです。
しかし、生物学的に大陸移動がないと、
つじつまが合わない事例がいくつか発見されてもいました。

1930年にヴェーゲナーが50歳で亡くなると、
大半の科学者たちが、この説を真面目に取り上げなくなってしまいました。

1950年代から1960年代になって、
プレートテクトニクス理論が発展してきました。
それによって彼の大陸移動説が、再び脚光を浴びる様になりました。
古い地層の岩石に残っている磁気の方向が、
大陸移動を考えないと説明がつかなかったのです。
また、マントル対流の存在が明らかになった事で、
説明できるようになったのでした。

大陸移動の速度は、1年間に数センチから10センチだそうです。
仮に1年間に5センチとすると、
一か月では約4ミリ。

反対に100年で5メートル。
1000年だと50メートル。

千年前は日本では平安時代真っ盛り、
平清盛が生まれて間もなく、そんな時代だったのですね。
その頃の京都と、現在の京都は、
50メートルくらい左か右かにズレていたとは。

「科学者にとって一番大事なものは・・勘」

それは医者も同じだと聞いた事があります。
患者が待合室から診察室に入って来る時の動き方、
肌の艶、視線の向き、態度。
そういった動作を見て、
医者は「この患者は多分〇〇が悪いんだろう」
そういった勘が最も重要なんだそうです。
でも現代の医者は器機に頼るんで勘があまり働くなっているとか。

大陸移動説も最初は(勘)から始まったのですね。

私も以前、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた時、
すぐに「これはオウムの仕業だな」と直感しました。
何故そう思ったのかは全然覚えていないのですが、
あれも(勘)だったと思うのです。











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日本海海戦・・⑭

2020-05-07 17:40:27 | 歴史
超高画質 HD 日本海海戦と日本海海戦軍歌


この海戦には、軍歌「日本海海戦」が作られました。
その頃はなんでも軍歌にしてしまうのですね。
「廣瀬中佐」「水市営の会見」などなど・・

日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎とは、
どんな人物だったのでしょう。

1848年、鹿児島県・鹿児島市生まれ。
薩摩藩士の四男として生まれました。
1862年(14歳)には薩摩藩士として薩英戦争に従軍し初陣。
戊辰戦争では、春日丸に乗り組み、
阿波沖海戦、箱館戦争、宮古湾海戦で戦う。



身長は163センチと小柄でしたが美男子で、
若い頃はかなりモテたという事です。

1871年(23歳)~1878年(30歳)までイギリス留学。
1894年(46歳)日清戦争では(浪速)艦長を務める。



それから、あの日本海海戦。
世界に類なき完全勝利。



前列中央が東郷提督。前列向かって右端が秋山真之中佐。

日本海海戦では大将でしたが、
その後、元帥(軍人としての最高位)に登りつめ、
段々と神格化されて行きました。



1934年(昭和9年)逝去。86歳。



葬儀は国葬で行われました。



墓所は、本人は母親と同じ、東京青山墓地にしたかったらしいのですが、
それは叶わず、東京の多磨霊園にあります。
隣だったか、向かい側だったかは、山本五十六元帥の墓です。
二人とも同じ規模の大きな墓です。共に元帥ですからね。



東京渋谷区の原宿駅の近くには、彼を祀って東郷神社があります。
福岡県。福津市にも東郷神社があるそうです。

銅像は全国4か所にあるそうです。
埼玉県・秩父市の秩父御嶽神社。横須賀の三笠公園。
長崎県・佐世保市の東公園。鹿児島市の多賀山公園。

東郷提督は、日本の若い人には知られていませんが、
むしろ外国の、特に軍関係者には絶大な人望があり、
アドミラル・トーゴーは尊敬を持って語られる伝説の人です。

太平洋戦争のアメリカ提督、
ニミッツ元帥・スプルーアンス提督・ハルゼー提督。
みな、東郷提督を尊敬していました。
軍人として東郷提督を越える事など絶対にあり得ないのですから。
どうあがいても国の存亡を賭けた戦争に、
完全勝利する事など、絶対にないのですから。

軍人として最高の名誉に輝いた東郷平八郎。
日本人はもっと知った方がいいですね。
外国人の方がよく知ってるなんて、それは恥ずかしい事ですね。


小学校の時の担任の先生が、
敵前大回頭と頬を赤くして熱弁を振るっていた事から
日本海海戦の事を知りたいと思ったのが、
そもそものきっかけでしたが、長い話になってしまいました。

これにて、おしまい。



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日本海海戦・・⑬

2020-05-07 15:41:18 | 歴史
戦艦・三笠は現在でこそ横須賀に立派な姿で保存されていますが、
そうなる以前には大変な道のりがあったのです。

さて、三笠にはどんな運命があったのかを辿ってみましょう。

日露戦争後、三笠は一応海軍に在籍していましたが、
ワシントン条約などあって、一時はスクラップの話もありました。
しかし、歴史的勝利を導いた記念艦をスクラップにするというのは、
いくら何でも淋しい、残すべきだといった意見もあって、
スクラップは取りあえず回避されました。

様々な紆余曲折はありましたが、
三笠保存会といった組織も出来、
1925年(大正14年)三笠の保存が正式に決定しました。
しかし、その頃の三笠は関東大震災で損傷を受け、
半分沈没しかかった惨憺たる状態だったのです。

沈没してしまっては元も子もないので、
1年半の大工事を経て1926年、陸地に固定する工事が完成しました。
その場所で三笠は淋しく余生を送っていました。

1945年(昭和20年)
日本の敗戦に伴って、アメリカ・イギリス・ソ連・中国などの、
極東委員会では三笠の保存をめぐって激論が交わされました。

三笠保存に最も反対したのは、
ソ連代表のテレビヤンコ中将でした。
「敗戦国日本ごときが、今のソ連を打ち負かした記念として、
保存などとは不届き千万。直ちにスクラップにすべし」
そう力説したのでした。

しかし、マッカーサー元帥の側近である、
アメリカ参謀部長のウィロビー少将は、
「イギリスにはヴィクトリー号が保存され、
アメリカにも、コンスティテューション号が保存してあります。
ソ連にも、レニングラードには革命記念として、
アウローラ号が保存してあるではありませんか」
「アメリカは日本を平和的に占領統治したい。
その為には日本国民の反感をかうのは避けるべきでしょう」

結局、このウィロビーの意見をいれたマッカーサーの、
鶴の一声で三笠は廃棄を免れたのでした。
しかし、ソ連はあくまでも三笠を丸坊主にする事を主張し続けたのです。

ソ連としては、当時の大国であったロシアが、
こんな東洋の小国に、完膚なきまでに叩きのめされたのが我慢ならないのです。
その屈辱感は容易ならざる恨みであり、
その象徴である戦艦三笠を保存するなど、断じて許せないのです。

この後、三笠は米軍監視下におかれましたが、
誠意を持った監視下ではなく、米兵は記念品を勝手に持ち出したりだったのです。
最高権力であるGHQとアメリカ海軍基地司令官は、
三笠を条件付きで転用する事を許可します。

〇 艦橋・マスト・煙突・砲塔を撤去の上、
  横須賀市による教育事業に転用する事を許可する。

それでもソ連が主張する解体スクラップよりましである。
三笠の所有権は大蔵省にあった。
ある時、民間の会社が三笠に係ってきました。
この会社は三笠を鉄などを売り払い、
キャバレーやカフェーなどで儲けようとしたのです。



栄光の戦艦・三笠はダンスホールや水族館、カフェーなどに落ちぶれてしまいました。

このやり切れない惨状を立て直すきっかけになった人が現れました。
その人はイギリス人でした。

名前はジョン・S・ルビンという70歳のイギリス人でした。
1955年(昭和30年)の事でした。
初めて日本の地を踏んだ彼は、真っ先に横須賀の三笠に行きました。
そこに彼が見た物は、三笠の屍体でした。

世界海戦史上の英雄、東郷提督が乗っていた、あの三笠なのか・・
これが、あの三笠の末路なのか・・

彼の心は、慟哭しました。
ただ、茫然として立ち尽くすばかりでした。
なんと言う事だ!
今度の戦争に負けたからといって、
ロシアとの戦争に勝って、祖国を救った東郷提督や戦艦三笠の功績を、
忘れてしまって、そんな事でいいのか。
日本人は忘恩の国民になってしまったのか!

1902年(明治35年)
時計商であったジョン青年は、イギリスで三笠の回航員相手に、
時計を売っているうちに、
日に日に出来上がってゆく三笠を自分の艦の様に愛する様になっていました。
いよいよ完成して日本に向かう三笠の姿を、
ジョンは岸壁から、涙で見えなくなるまで見送ったのでした。

それから50年、貿易商になったジョンは真っ先に三笠に逢いに来たのです。

三笠の乗組員や保存会を訪ね、現状を知ったジョンは、
いいようのない憤りを感じ、
イギリスに帰ってから彼はジャパンタイムスに原稿を送ります。
「日本人はなんという忘恩の国民なのだ。日本海海戦の英雄、
東郷提督や三笠の事も忘れてしまったのか?」

1955年(昭和30年)に掲載されたこの文章は、たちまち反響がありました。
この意見に共感する人がいたのです。
「三笠の復活こそ、日本国民の精神復興の試金石であるべきだ」

こういった意見は日本のみか諸外国にも賛同者がかなり居て、
翌年には日本の大物ジャーナリストも、
三笠復元に本気になってきました。

三笠を救え、三笠を元の形に復元せよという声は、
ようやく言論界でも高まり、世論も大いに喚起されてきました。







しかし、復元しようにも、三笠はあまりに激しく破壊されているので、
オリジナルな設計図が必要となり、
三笠を建造したイギリス・ヴィッカーズ社に図面の提供を求めました。
事情を聞いたヴィッカース社は非常に同情してくれ、
設計図を送ってくれたのです。

復元工事は、まず基礎の部分を永久的に保存できる様に工事され、
内装はそれ以上に困難を極めましたが、
生き残っている乗組員から話を聞き、記憶をたどり、
何とか元通りに近い形での復元を目指したのでした。

工事開始から1年7か月後の、
1961年(昭和36年)5月。
日本海海戦のシンボル、戦艦・三笠は復元したのでした。





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