河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

日本海海戦・・⑫

2020-05-07 01:38:25 | 歴史




さて、この海戦の主役でもあった、戦艦三笠とは、どういう軍艦なのでしょう。

戦艦・三笠はイギリスのヴィッカース社で、敷島型戦艦の4番艦として造られ、
1902年(明治35年)に完成しました。
当時、日本はまだ戦艦を造れる技術が無かったのです。
奈良県の三笠山にちなんで命名され、
完成当時は世界最大の戦艦でした。

排水量・・15140トン
全長・・・133,5メートル。
全幅・・・23メートル。
15000馬力(これは戦艦大和の1/10でした)
速力・・・18ノット(時速33,3キロ)
装甲・・舷側は23センチ。甲板は10センチの鋼鉄に覆われていました。

上の写真(精密模型)では右側が艦首ですが、
喫水線から下が鋭く出っ張っています。
これは衝角(しょうかく・・ラム)と言って、
敵艦に体当たりをして、船体に穴をうがつ為で、



現在ではどの船にも使われている、
バルバスバウ型船首(水の抵抗を少なくする)のとは形は似ていますが、
意味は全然違います。
バルバスバウで最初に有名になったのは、世界最大の戦艦・大和です。

戦艦・三笠は、世界三大記念艦とされ、
横須賀に展示保存されています。



アメリカのコンスティチューション号は、
1812年、米英戦争の殊勲艦として、
マサチューセッツ州ボストンに係留されています。



イギリスのヴィクトリー号は、
先に述べた、ナポレオンのフランス・スペインの合同軍と戦い、
旗艦として殊勲を上げ、ネルソン提督座上の軍艦として有名になった軍艦で、
イギリスのポーツマス軍港に保存されています。



戦艦三笠は、京浜急行・横須賀中央駅から直線距離で600メートル。
JR横須賀駅から1、5キロくらいの所に展示されています。





私は5回くらい見に行ってますが、
最初に行った時には驚きました。
あまり小さいのに驚いたのです。
今の船の常識から言うと、全長133メートルは、あまりにも小さいのです。
私が、当時は世界最大の戦艦だったと知っているからこそ、驚いたのです。



あの有名な絵画。
世界史を塗り替えるほど有名なひのき舞台となった場所。





それが実際に行ってみると、
何とそこは、誰かが言ってました。
「六本木あたりの気の利いたスナックのトイレより狭い」
本当にあの狭さにはびっくりして腰を抜かしそうになりました。

こんな狭い粗末な場所で、東郷提督は、あの敵前大回頭を命令し、
強国ロシアを打ち負かす歴史を作ったのかと・・
分かっていても、まだ信じられなかったのでした。





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日本海海戦・・⑪

2020-05-06 13:53:27 | 歴史
世界中が固唾を呑んで見守っていた、日本海での海戦に、
弱小国だと思われていた、東洋の小国・日本が勝った、
それも完全無欠の大勝利だったというニュースは、
たちまち世界中を駆け巡り、
そして世界中の国は知れば知るほど、その事実に驚嘆しました。

未だかつて、そんな完全試合の大勝利などというのは、
誰しも見た事も、聞いた事もなかったのですから。
そして、初めて有色人種が白色人種の国に勝った事もなかったのですから。
それは有色人種の国々に大きな勇気を与えました。
かつ、白色人種の植民地である国の人々は、
自分たちにも可能性がある事に目覚めたのでした。



日本艦隊勝てりの第一報が日本に伝えられると、
新聞社の印刷機は狂った様に回り始め号外が街頭に配られました。
人々は嬉しさのあまり家に閉じこもっている事もできず、
屋外に出ては勝利を歓びあったのです。
人々は手に手に勝利を祝う提灯を持って、
いつまでもいつまでも、その列は絶える事なく、深夜まで及びました。

敗戦の事実はロシアでは硬く口を閉ざされ、
ロシア国民は敗戦の事実は知らされないままでした。
6000名を超える捕虜たちは、主に九州方面に収容されました。

捕虜達も海戦の結果をよく知りませんでした。
しかし、捕虜同士の話やロシア語を話す日本軍人らから、
段々と真相が伝わり始め、
それを聞く彼等は信じられない真実に呆然とし、
そのショックに悄然として打ちひしがれるばかりでした。

「俺達はあんなに盛大にぶっ放したのに、
それじゃ俺達が撃った弾は何処を目がけて飛んでいったんだ?」
「な~に、海は広い、的に限りはないから心配ね~よ」
捕虜たちの話には、一抹の淋しさがありました。
港に入って来る日本艦隊の軍艦を見ると、
あれほどの大海戦だったというのに、どの軍艦も大して
損傷を負っていない事実を目の当たりにすればするほど、
彼等は、どうしてこんな事になったのかと不思議がるばかりでした。


では何故、日本とロシアとではこれほどの差がついたのでしょう?

ロシアの敗因は数えきれないほどありました。

〇  ロシアには、ロシア革命への機運が高まり、
   船内でも、威張り腐った上官と水兵の関係は、
   主人と奴隷みたいでもあり、士気を欠いていた。

〇  長い航海に疲れ果て、一刻も早くウラジオスットック港に
   逃げ込みたいという考えが、決戦の勢いを鈍らせた。

〇  バルチック艦隊は2列縦隊で来たのが最大の失敗。
   
〇  ロジェストヴェンスキー提督が何を考えていたのか?
   結局、最後まで誰も知らなかった。

〇  北国出身のロシア兵に、特に暑い南国の湿気や病気は過酷をきわめ、
   敵国イギリスの政治的圧力により寄港地が限られ、
   洋上での過酷な石炭補給や長過ぎる洋上生活に厭戦感が漂っていた。

〇  石炭補給船を上海に返し、これからの進路が対馬海峡である事を知られてしまった。

〇  船体に付着した貝類をドックでそぎ落とすのだが、
   ドックに入れないので貝類は付着したままで、
   その為に船の速度が2ノット(時速4キロ)は遅くなっていた。

〇  日本軍に比べて海戦の熟練度が低かった。

〇  発砲時に試射をしなかったので、いつまでも距離が狂ったままだった。

〇  後続の第三太平洋艦隊(ネボガトフ少将指揮)は速度が遅く、足手まといになった。

〇  ウラジオスットックまでの距離が長く、各艦は石炭を積めるだけ積み込んでいて、
   重みで喫水が下がり、沈没を早めた。

〇  38隻の大艦隊と言っても、海戦には不要な(というか邪魔でしかない)船を引き連れ、
   それらの艦を護らなければいけないというハンディーがあった。

〇  何度も言うが、司令長官であるロジェストヴェンスキー提督が、
   どう戦おうとしているのか誰も知らずに、
   彼、本人が人事不省になった時、
   ひどい場合は、一兵卒が舵を取っていて、それとは知らない後続艦は、
   その後を無意味にくっ付いていたりした。

〇  日本軍が新式で爆発力の強い下瀬火薬を使っていたのに比べ、
   ロシア軍は爆発力が弱い黒色火薬で、それは真っ黒な煙に包まれて、
   すぐには次の発射ができなかった。


ロシアの敗因はいくらでもあって、語り切れないほどですが、
では、日本軍があれほどの大勝利になった勝因は何だったのでしょう?

〇  敵前大回頭・・これが最大の勝因でした。
   それまで、海軍関係者には、そんな事はあり得ないと考えられていた戦法だったのです。
   後に言われました。
   「あの海戦は最初の30分ですべてが決まってしまった」

〇  ロシア艦隊が7か月もかけて長く辛い航海をしている間、
   日本艦隊は猛訓練に明け暮れていました。
   1年間に使う砲弾を、たった10日間で消費する程の猛訓練だったのです。

〇  参謀の秋山真之中佐は海戦という海戦の歴史を調べ上げ、
   その結果として敵前回頭(T字戦法)というのが在る事を知りました。

〇  敵前回頭という戦法を採用するにあたって、
   東郷提督も、今までのロシアとの海戦(黄海海戦)などを調べ上げ、
   敵に横腹を見せた場合のロシア軍の砲弾命中率をパーセントで調べ、
   当たらない、大丈夫だという自信を持っていたのです。

〇  自分の身に(まさか)が起ころうと、
   その後はどうすればいいかを部下に徹底して伝授していたのです。
   戦闘というのは、全員が一致団結しなければならない事の重要性を教えていたのです。
   一人の有能な指揮官さえ居ればいいというものではないのです。
   


重傷を負い捕虜となったロジェストヴェンスキー提督を、
東郷提督は見舞いに訪れました。
ロジェストヴェンスキー提督は涙を流して迎えたそうです。
彼は生涯、東郷提督を尊敬していたそうです。

しかし、後年シベリア鉄道経由で本国ロシアに帰った提督は、
国民から盛大な声援で迎えられたのですが、
裁判になりました。
彼は自分は無罪になると思っていました。
無罪となった事は間違いないのですが、兵役を解除されてしまいました。
つまり、誇り高い軍人としての地位も名誉も剥奪され、一般人となってしまったのです。

ロジェストヴェンスキー提督は、ただの人となり、
戦闘で負った傷の後遺症にも悩みつつ、日本海海戦から3年後、
人々から忘れ去られ、失意のまま60歳でこの世を去りました。

更に、ロジェストヴェンスキー提督から指揮権を任された、
ネボガトフ少将は、やはり裁判となり死刑を宣告されたのです。
ロジェストヴェンスキー提督は海戦から間もなく人事不省になってしまいましたが、
ネボガトフ少将は、戦う事もなく降伏した。
ニコライ二世はそれを許す事が出来なかったのです。
むざむざと降伏するくらいなら、全員が死んでもいいから、
ロシアという国の誇り、威信を守り抜いてほしかったのです。

ネボガトフ少将はその後、懲役10年に減刑されましたが、
その後を知る人は誰もいません。

ちなみに、バルチック艦隊とは違いますが、
旅順要塞司令官で、乃木大将に敗れたステッセル将軍も、
ロシアの軍事法廷で死刑判決となりましたが、
外国からの干渉があって、懲役刑に減刑されました。

しかし、晩年のステッセルはセールスマンとしてシベリアの地を歩き、
働いていたそうで、彼のその後も誰も知りません。











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日本海海戦・・⑩

2020-05-05 12:17:44 | 歴史
明けて5月28日。
鬱陵島付近に集結していた日本の連合艦隊は、
夜明けと共に出撃しました。

敗残のバルチック艦隊を率いるのはネボガトフ少将。
午前10時頃、バルチック艦隊の乗組員たちは、
向かって来る日本艦隊の群れを見て、激しい衝撃に襲われました。
それは到底信じられないものでした。

ロシアは戦艦が8隻中、6隻を撃沈されたのですから、
日本軍の損害も大きなものであった筈が・・・
日本艦隊の主力艦は全艦が健在だったのです。
旗艦三笠にはあれほどの集中砲火を浴びせたというのに、
見る限りの三笠はマストこそ折られていましたが、
それ以外には損傷らしい損傷は認められないのです。

10時34分頃、
日本艦隊との距離が8000メートルになった時、
日本軍は一斉砲撃を開始しました。
戦艦オリョールがこれに応えて応戦を始めました。
(後に「バルチック艦隊の壊滅」書いた、
ノビコフ・プリヴォイ氏が座乗する戦艦です。)
しかし、オリョールは旗艦・ニコライ一世に、
意外な光景が繰り広げられているのを見て愕然としました。



そこには白旗(降伏を表わす旗)が掲げられていたのです。
「敵の優勢なる艦隊に包囲せられたるをもって、我は降伏す」

これを見た全ロシア艦隊に衝撃が走りました。
確かに傷ついたロシア艦隊が応戦しても、
撃沈されるのは、もう明らかでした。
しかし、自分たちは誇り高いロシア海軍だ。
全滅しようと最後の誇りをかけ決戦を挑むべきだと思ったのです。

各艦上には険悪な空気が漂いました。
しかし、司令長官が命令している以上は逆らえないと、
各艦長は泣く泣く降伏旗を掲げたのでした。

ですが、駆逐艦イズムルード艦長・フェルンゼ中佐は激昂し、
全速力で逃走し、逃げ切っていましました。

この場所ではなくても、他にも降伏を受け入れず、
死を覚悟で最後まで奮戦した艦もあったのです。
(2015年4月28日の河童の歌声で書いた、
ウシャーコフ号の最期)もそうでした。

また、巡洋艦ドミトリー・ドンスコイ号の最期も立派でした。
日本軍に完全包囲されても降伏の意思を示さず、
激しい戦意を剥き出しにして戦ったのです。
この艦は日本軍の追尾を振り切って、鬱陵島の海岸に夜陰に紛れて投錨しました。
しかし結局それ以上進む事は不可能で、自沈したのですが、艦長は死亡。
乗組員たちは島に上陸しました。
彼等は後に捜索してきた日本兵に囚われ捕虜となりますが、
最後まで戦意を剥き出しにして奮戦した、立派な最期でした。


2日間にわたって日本とロシアが、その総力をかけた決戦は終わりました。

その結果は信じられない恐るべき結果でした。
日本は勿論、諸外国もその信じられない結果に驚嘆しました。
あり得ない完全試合だったのです。


それまでの海戦で、最も勝敗に差がついたのは、
日本海海戦から丁度100年前、1805年10月21日に、
ナポレオンのフランスとスペイン合同の艦隊が、スペイン沖で、
ネルソン提督率いるイギリス艦隊と激突した、
トラファルガーの海戦です。

ナポレオン軍は33隻中22隻を失い6900人が死亡。
イギリス軍の損失はありませんでしたが、
1600人が死亡。ネルソン提督も死んでしまいました。
いくら勝負に勝ったと言っても1600人が死に、
司令官も死んでしまっては、完全勝利とは言えないでしょうね。


これに対し、日本海海戦は、
ロシアは38隻中、沈没が19隻。
捕獲されたのが5隻。
逃走中、沈没または自爆が2隻。
抑留が8隻。

ロシア本国に逃げ切った特務船1隻以外は、
ウラジオストックに到達したのは、
ヨット式の小型巡洋艦1隻。
駆逐艦2隻の、たった4隻だけだったのです。

これをひと言でいうと、全滅でした。
それに引き換え日本軍は、80トンの水雷艇が3隻沈没。

死者はロシア・4700人。捕虜6100人。
日本は、水雷艇3隻、死者107人でした。

これは、これから先の時代に海戦などという戦いがあり得ない事を考えると、
まさに空前絶後の完全試合でした。







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日本海海戦・・⑨

2020-05-05 10:24:38 | 歴史
その頃、旗艦スワロフはただ1艦で彷徨っていました。
もはや軍艦としての姿は失われ、
ただ1門の7,5センチ砲のみしか残っていません。
沈没も時間の問題となっていたその時、
駆逐艦ブイヌイがスワロフを発見して近寄ってきます。
ブイヌイはスワロフの悲惨な姿に唖然としました。
「まるで栗を焼く窯みたいだな」

コロン参謀長はブイヌイを呼び寄せ、
重傷のロジェストヴェンスキー提督をブイヌイに移そうとしますが、
海は荒れていてボートも全て焼け落ち、
非常に危険な状態での中、奇跡的に移送に成功します。

それから間もなくスワロフは日本軍に発見され、
攻撃を受けたスワロフは925名の乗組員と共に沈没して行きました。

意識の混濁したロジェストヴェンスキー提督は、
そんな中で、指揮権をネボガトフ少将に任命します。
ネボガトフ少将は分散していた艦隊を何とか寄せ集め、
隊列を組んで一路ウラジオストックを目指します。
彼等の再起する道は、ウラジオストックに逃げ込むしかなかったのです。



午後6時頃、ネボガトフ少将は、
戦艦三笠を旗艦とした第一戦隊が急速に接近して来るのを発見します。
距離7000メートル前後で砲撃が始まりました。
第三次戦闘が開始されたのです。

しかしそれは傷つき疲労しきったロシア艦隊にはあまりに過酷なムチでした。
戦艦アレクサンドル三世は、転覆ししばらく浮いていましたが、
一人の生存者もなく沈没して行きました。
それと共に、戦艦ボロジノも、
たった一人の奇跡的な生存者を残すのみで沈没。
水平線から陽が沈んだ午後7時28分に戦闘は終わったのでした。
東郷提督は、全艦隊に戦闘終了を告げ、鬱陵島に集合せよと命じます。





対馬、および北九州沿岸、山口県の日本海側沿岸では、
午後2時頃より沖合から凄まじい砲撃の音がいんいんと轟いてきました。
人々は日本とロシアの艦隊が遂に激突した事に気づきます。
彼等は大丈夫だろうかと眉をひそめ、海を眺めていました。

戦闘終了後の午後7時30分。
東郷提督は、対馬に待機させてあった、駆逐艦・水雷艇部隊に出撃を命じます。
昼間、敵艦隊を目の前にしながら引き返せと命令され、
「俺達はいったい何の為に海軍に入ったのだ。
敵を目の前にして引き返せとは、あまりじゃないか」と
悔し涙を流した駆逐艦・水雷艇部隊は、
満を持して一斉にロシア艦隊に向かって突進して行きました。

波浪は激しく各艦艇の動揺は50度から60度に達する中、
そんな事は意も介さず、
闇夜の中をロシア艦隊の姿を求めて走り回ります。

午後8時頃、ロシア艦隊を発見した艦艇は一斉に夜襲攻撃をかけました。
疲れ切って傷ついた、既に青息吐息だったロシア艦隊は、
まるで魚の群れの様に高速でまとわり付いてくる水雷艇の為に、
逃げ回り、壮絶な夜の戦場になりました



夜襲は3時間に及び午後11時頃、戦闘は終わりました。
しかし、この攻撃で戦艦ナワリンが沈没。
戦艦8隻中、これで5隻が失われたのでした。
ロシア艦隊は四分五裂となり、ヨタヨタと日本海を彷徨うばかりでした。
この夜間戦闘で日本は80トンの水雷艇3隻を失いました。

夜が明けた日本海には敗残のロシア軍艦が、
あちこちに点在し、日本軍に発見された艦はもはや抵抗する所か、
浮いているのがやっと、沈没寸前だったりで、
降伏旗を掲げる艦が多数ありました。



駆逐艦「漣・さざなみ」

駆逐艦ブイヌイは燃料が尽きかけウラジオストックまでは到底無理になり、
仕方なく重傷のロジェストヴェンスキー提督は、
駆逐艦ベドーヴィに乗り換えます。
しかし、ベドーヴィは日本の駆逐艦「漣」に発見されてしまいました。
ベドーヴィにはもはや抵抗できるものは何も残っていません。
白旗を掲げざるを得ませんでした。

降伏した駆逐艦ベドーヴィに乗り込んだ漣の士官はが、
調査の為に艦内のある一室に入ろうとすると、
ロシアの士官が何かを言いながら、しきりにそれを阻止しようとします。
塚本という士官は、ロシア兵が「アミラル」という言葉を、
繰り返していたのを思い出し、
それが「アミラル」ではなく「アドミラル」だったと気づきます。

塚本士官は手旗信号で漣に「ロジェストヴェンスキー提督を捕虜にした」と伝えました。
その瞬間、漣ではバンザイ・バンザイの激しい動きとなります。

わずか数百トンの小さな駆逐艦が、
敵の最高司令長官を捕虜にした瞬間でした。








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日本海海戦・・⑧

2020-05-04 20:37:17 | 歴史
戦艦・三笠の一斉射撃で始まった日本軍の砲撃は、
三笠に続いて「敷島」が、
1分後には「富士」「朝日」「春日」「日進」と、
ロシアの旗艦・戦艦スワロフを狙って集中攻撃をしました。

その後に続く艦は、
左列の先頭艦の「オスラビア」に集中攻撃をかけます。
オスラビアはその時、右列の戦艦群を先に通そうと、
殆ど停止状態で、格好の的になってしまったのです。
これがロジェストヴェンスキー提督が犯した最大の失敗の結果でした。

日本艦隊とロシア艦隊との距離は5000メートル以下に短縮。
東郷提督が願っていた接近戦がまさに実現したのです。



これによって、6インチの中口径砲多数が砲撃に参加。
これらは砲数が多い上に発射速度が優れているので、
ロシア艦隊の数倍におよぶ砲弾を敵に浴びせかけられました。

砲撃を開始して10分後にはロシア艦隊に続々と砲弾が命中し、
集中砲火を浴びた旗艦スワロフと、オスラビアの被害が著しくなりました。

たまらずにロジェストヴェンスキー提督は右舷への変針を命じます。
それを見た東郷提督は旗艦三笠に変針を命じ、
ロシア艦隊の進路前方にのしかかる様に艦隊を進めます。

三笠には敵の砲弾がかなり命中しますが、
奇跡的に東郷提督の居る、露天艦橋には命中しません。
距離はさらに縮まり4600メートルになりました。
日本艦隊は小口径砲まで射撃に加わります。

戦闘開始から20分足らずでオスラビアはたまらずに戦列を離れます。
この集中砲火の被害にロジェストヴェンスキー提督は艦隊を右に左に
変針させますが、東郷提督は執拗に食い下がり、
ロシア艦隊への前面圧迫をやめません。

オスラビアに続き、旗艦スワロフも戦列外に出ざるをえませんでした。
戦列を離れた旗艦に変わって、アレクサンドル三世号が先頭艦になりました。
ロジェストヴェンスキー提督はこのままでは不利だと、
全艦に180度の一斉回頭を命じます。

これを見た東郷提督は、あくまでロシア艦隊の前面圧迫を決意、
全艦に一斉反転を命じます。
これによって、今まで最後尾に居た艦が先頭になり、
今まで先頭だった旗艦・三笠が最後尾になります。

その間にも日本軍の砲撃は間断なく続けられ、
その中でも戦艦オスラビアの被害は甚大で、
必死で艦隊を追う姿は悲壮でした。



しかし、戦闘開始から1時間も経たない午後3時06分。
オスラビアは力尽きロシア艦隊が見守る中、沈没して行きました。
ロシア艦隊乗組員は眼前で沈没してゆくオスラビアの姿に慄然とします。

7か月前にロシアを出港してきたオスラビアの姿は無く、
多くの乗組員が海面に投げ出され死にかけている。

旗艦スワロフのロジェストヴェンスキー提督は、
日本艦隊の砲撃が予想以上に高い命中率をしめしている事に呆然とします。
そして味方艦の被害の激しさに戦慄していました。
しかし彼はまだ希望を失ってはいませんでした。

午後2時52分。
日本軍の砲弾が旗艦スワロフの司令塔に命中しました。
ロジェストヴェンスキー提督と艦長が負傷しました。
ロジェストヴェンスキー提督は一時意識を失いますが、
気力で意識を回復し指揮を採ろうとします。

スワロフに変わって先頭艦を務めていたアレクサンドル三世も、
被害が著しくなり戦列外に出てしまいました。
変わって先頭艦になったのはボロジノでした。

ボロジノは必死で日本艦隊から逃げようと右へ左へと変針します。
その結果、日本艦隊からの距離は遠ざかって行きました。
それは戦闘開始から1時間10分後の午後3時20分の事でした。


旗艦・スワロフはただ一艦で洋上を漂っていました。
艦上の構造物は全て破壊され軍艦の形態は失われていました。
ロジェストヴェンスキー提督は頭部に深い傷を負い、
足にも深い傷を負っていました。

ロシア艦隊を見失った東郷提督は、
全艦艇に対し大々的な索敵を命じます。
このままロシア艦隊がウラジオスットックに逃げ込んでしまえば、
必ず大きな脅威となる。
東郷提督は、ロシア艦隊を徹底的に撃破したかったのです。

敵を見失ってから40分後、
午後4時頃、
連合艦隊はロシア・バルチック艦隊を発見します。
距離6000メートルで砲撃を開始しました。
互いに同方向での並行戦でした。
この並行戦は10数分で終わりましたが、
この攻撃でロシア艦隊は更に深く傷つきました。

その頃、霧が深くなって午後4時43分。
またもロシア艦隊の姿を見失います。



この頃、午後4時30分頃、
日本巡洋艦隊の追尾から必死に逃れようとしていた、
ロシア巡洋艦隊に思わぬ幸運がおとずれました。
東郷艦隊に追われていた戦艦隊と遭遇したのです。
巡洋艦隊は戦艦隊と合流して、日本の巡洋艦隊と激しい戦闘が開始されました。
日本巡洋艦隊は戦艦を相手では勝ち目がないので、
ロシア艦隊の射程距離外に逃れます。

しかし、この海戦の砲声を聞きつけた日本艦隊が、現場に駆け付けました。
日本艦隊の突然の出現にロシア艦隊は驚愕します。
午後5時05分頃。
これに恐れをなしたロシア艦隊は退避行動を取ります。
やがてロシア艦隊は霧の中へ姿を消して行きました。





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