世界中が固唾を呑んで見守っていた、日本海での海戦に、
弱小国だと思われていた、東洋の小国・日本が勝った、
それも完全無欠の大勝利だったというニュースは、
たちまち世界中を駆け巡り、
そして世界中の国は知れば知るほど、その事実に驚嘆しました。
未だかつて、そんな完全試合の大勝利などというのは、
誰しも見た事も、聞いた事もなかったのですから。
そして、初めて有色人種が白色人種の国に勝った事もなかったのですから。
それは有色人種の国々に大きな勇気を与えました。
かつ、白色人種の植民地である国の人々は、
自分たちにも可能性がある事に目覚めたのでした。
日本艦隊勝てりの第一報が日本に伝えられると、
新聞社の印刷機は狂った様に回り始め号外が街頭に配られました。
人々は嬉しさのあまり家に閉じこもっている事もできず、
屋外に出ては勝利を歓びあったのです。
人々は手に手に勝利を祝う提灯を持って、
いつまでもいつまでも、その列は絶える事なく、深夜まで及びました。
敗戦の事実はロシアでは硬く口を閉ざされ、
ロシア国民は敗戦の事実は知らされないままでした。
6000名を超える捕虜たちは、主に九州方面に収容されました。
捕虜達も海戦の結果をよく知りませんでした。
しかし、捕虜同士の話やロシア語を話す日本軍人らから、
段々と真相が伝わり始め、
それを聞く彼等は信じられない真実に呆然とし、
そのショックに悄然として打ちひしがれるばかりでした。
「俺達はあんなに盛大にぶっ放したのに、
それじゃ俺達が撃った弾は何処を目がけて飛んでいったんだ?」
「な~に、海は広い、的に限りはないから心配ね~よ」
捕虜たちの話には、一抹の淋しさがありました。
港に入って来る日本艦隊の軍艦を見ると、
あれほどの大海戦だったというのに、どの軍艦も大して
損傷を負っていない事実を目の当たりにすればするほど、
彼等は、どうしてこんな事になったのかと不思議がるばかりでした。
では何故、日本とロシアとではこれほどの差がついたのでしょう?
ロシアの敗因は数えきれないほどありました。
〇 ロシアには、ロシア革命への機運が高まり、
船内でも、威張り腐った上官と水兵の関係は、
主人と奴隷みたいでもあり、士気を欠いていた。
〇 長い航海に疲れ果て、一刻も早くウラジオスットック港に
逃げ込みたいという考えが、決戦の勢いを鈍らせた。
〇 バルチック艦隊は2列縦隊で来たのが最大の失敗。
〇 ロジェストヴェンスキー提督が何を考えていたのか?
結局、最後まで誰も知らなかった。
〇 北国出身のロシア兵に、特に暑い南国の湿気や病気は過酷をきわめ、
敵国イギリスの政治的圧力により寄港地が限られ、
洋上での過酷な石炭補給や長過ぎる洋上生活に厭戦感が漂っていた。
〇 石炭補給船を上海に返し、これからの進路が対馬海峡である事を知られてしまった。
〇 船体に付着した貝類をドックでそぎ落とすのだが、
ドックに入れないので貝類は付着したままで、
その為に船の速度が2ノット(時速4キロ)は遅くなっていた。
〇 日本軍に比べて海戦の熟練度が低かった。
〇 発砲時に試射をしなかったので、いつまでも距離が狂ったままだった。
〇 後続の第三太平洋艦隊(ネボガトフ少将指揮)は速度が遅く、足手まといになった。
〇 ウラジオスットックまでの距離が長く、各艦は石炭を積めるだけ積み込んでいて、
重みで喫水が下がり、沈没を早めた。
〇 38隻の大艦隊と言っても、海戦には不要な(というか邪魔でしかない)船を引き連れ、
それらの艦を護らなければいけないというハンディーがあった。
〇 何度も言うが、司令長官であるロジェストヴェンスキー提督が、
どう戦おうとしているのか誰も知らずに、
彼、本人が人事不省になった時、
ひどい場合は、一兵卒が舵を取っていて、それとは知らない後続艦は、
その後を無意味にくっ付いていたりした。
〇 日本軍が新式で爆発力の強い下瀬火薬を使っていたのに比べ、
ロシア軍は爆発力が弱い黒色火薬で、それは真っ黒な煙に包まれて、
すぐには次の発射ができなかった。
ロシアの敗因はいくらでもあって、語り切れないほどですが、
では、日本軍があれほどの大勝利になった勝因は何だったのでしょう?
〇 敵前大回頭・・これが最大の勝因でした。
それまで、海軍関係者には、そんな事はあり得ないと考えられていた戦法だったのです。
後に言われました。
「あの海戦は最初の30分ですべてが決まってしまった」
〇 ロシア艦隊が7か月もかけて長く辛い航海をしている間、
日本艦隊は猛訓練に明け暮れていました。
1年間に使う砲弾を、たった10日間で消費する程の猛訓練だったのです。
〇 参謀の秋山真之中佐は海戦という海戦の歴史を調べ上げ、
その結果として敵前回頭(T字戦法)というのが在る事を知りました。
〇 敵前回頭という戦法を採用するにあたって、
東郷提督も、今までのロシアとの海戦(黄海海戦)などを調べ上げ、
敵に横腹を見せた場合のロシア軍の砲弾命中率をパーセントで調べ、
当たらない、大丈夫だという自信を持っていたのです。
〇 自分の身に(まさか)が起ころうと、
その後はどうすればいいかを部下に徹底して伝授していたのです。
戦闘というのは、全員が一致団結しなければならない事の重要性を教えていたのです。
一人の有能な指揮官さえ居ればいいというものではないのです。
重傷を負い捕虜となったロジェストヴェンスキー提督を、
東郷提督は見舞いに訪れました。
ロジェストヴェンスキー提督は涙を流して迎えたそうです。
彼は生涯、東郷提督を尊敬していたそうです。
しかし、後年シベリア鉄道経由で本国ロシアに帰った提督は、
国民から盛大な声援で迎えられたのですが、
裁判になりました。
彼は自分は無罪になると思っていました。
無罪となった事は間違いないのですが、兵役を解除されてしまいました。
つまり、誇り高い軍人としての地位も名誉も剥奪され、一般人となってしまったのです。
ロジェストヴェンスキー提督は、ただの人となり、
戦闘で負った傷の後遺症にも悩みつつ、日本海海戦から3年後、
人々から忘れ去られ、失意のまま60歳でこの世を去りました。
更に、ロジェストヴェンスキー提督から指揮権を任された、
ネボガトフ少将は、やはり裁判となり死刑を宣告されたのです。
ロジェストヴェンスキー提督は海戦から間もなく人事不省になってしまいましたが、
ネボガトフ少将は、戦う事もなく降伏した。
ニコライ二世はそれを許す事が出来なかったのです。
むざむざと降伏するくらいなら、全員が死んでもいいから、
ロシアという国の誇り、威信を守り抜いてほしかったのです。
ネボガトフ少将はその後、懲役10年に減刑されましたが、
その後を知る人は誰もいません。
ちなみに、バルチック艦隊とは違いますが、
旅順要塞司令官で、乃木大将に敗れたステッセル将軍も、
ロシアの軍事法廷で死刑判決となりましたが、
外国からの干渉があって、懲役刑に減刑されました。
しかし、晩年のステッセルはセールスマンとしてシベリアの地を歩き、
働いていたそうで、彼のその後も誰も知りません。
弱小国だと思われていた、東洋の小国・日本が勝った、
それも完全無欠の大勝利だったというニュースは、
たちまち世界中を駆け巡り、
そして世界中の国は知れば知るほど、その事実に驚嘆しました。
未だかつて、そんな完全試合の大勝利などというのは、
誰しも見た事も、聞いた事もなかったのですから。
そして、初めて有色人種が白色人種の国に勝った事もなかったのですから。
それは有色人種の国々に大きな勇気を与えました。
かつ、白色人種の植民地である国の人々は、
自分たちにも可能性がある事に目覚めたのでした。
日本艦隊勝てりの第一報が日本に伝えられると、
新聞社の印刷機は狂った様に回り始め号外が街頭に配られました。
人々は嬉しさのあまり家に閉じこもっている事もできず、
屋外に出ては勝利を歓びあったのです。
人々は手に手に勝利を祝う提灯を持って、
いつまでもいつまでも、その列は絶える事なく、深夜まで及びました。
敗戦の事実はロシアでは硬く口を閉ざされ、
ロシア国民は敗戦の事実は知らされないままでした。
6000名を超える捕虜たちは、主に九州方面に収容されました。
捕虜達も海戦の結果をよく知りませんでした。
しかし、捕虜同士の話やロシア語を話す日本軍人らから、
段々と真相が伝わり始め、
それを聞く彼等は信じられない真実に呆然とし、
そのショックに悄然として打ちひしがれるばかりでした。
「俺達はあんなに盛大にぶっ放したのに、
それじゃ俺達が撃った弾は何処を目がけて飛んでいったんだ?」
「な~に、海は広い、的に限りはないから心配ね~よ」
捕虜たちの話には、一抹の淋しさがありました。
港に入って来る日本艦隊の軍艦を見ると、
あれほどの大海戦だったというのに、どの軍艦も大して
損傷を負っていない事実を目の当たりにすればするほど、
彼等は、どうしてこんな事になったのかと不思議がるばかりでした。
では何故、日本とロシアとではこれほどの差がついたのでしょう?
ロシアの敗因は数えきれないほどありました。
〇 ロシアには、ロシア革命への機運が高まり、
船内でも、威張り腐った上官と水兵の関係は、
主人と奴隷みたいでもあり、士気を欠いていた。
〇 長い航海に疲れ果て、一刻も早くウラジオスットック港に
逃げ込みたいという考えが、決戦の勢いを鈍らせた。
〇 バルチック艦隊は2列縦隊で来たのが最大の失敗。
〇 ロジェストヴェンスキー提督が何を考えていたのか?
結局、最後まで誰も知らなかった。
〇 北国出身のロシア兵に、特に暑い南国の湿気や病気は過酷をきわめ、
敵国イギリスの政治的圧力により寄港地が限られ、
洋上での過酷な石炭補給や長過ぎる洋上生活に厭戦感が漂っていた。
〇 石炭補給船を上海に返し、これからの進路が対馬海峡である事を知られてしまった。
〇 船体に付着した貝類をドックでそぎ落とすのだが、
ドックに入れないので貝類は付着したままで、
その為に船の速度が2ノット(時速4キロ)は遅くなっていた。
〇 日本軍に比べて海戦の熟練度が低かった。
〇 発砲時に試射をしなかったので、いつまでも距離が狂ったままだった。
〇 後続の第三太平洋艦隊(ネボガトフ少将指揮)は速度が遅く、足手まといになった。
〇 ウラジオスットックまでの距離が長く、各艦は石炭を積めるだけ積み込んでいて、
重みで喫水が下がり、沈没を早めた。
〇 38隻の大艦隊と言っても、海戦には不要な(というか邪魔でしかない)船を引き連れ、
それらの艦を護らなければいけないというハンディーがあった。
〇 何度も言うが、司令長官であるロジェストヴェンスキー提督が、
どう戦おうとしているのか誰も知らずに、
彼、本人が人事不省になった時、
ひどい場合は、一兵卒が舵を取っていて、それとは知らない後続艦は、
その後を無意味にくっ付いていたりした。
〇 日本軍が新式で爆発力の強い下瀬火薬を使っていたのに比べ、
ロシア軍は爆発力が弱い黒色火薬で、それは真っ黒な煙に包まれて、
すぐには次の発射ができなかった。
ロシアの敗因はいくらでもあって、語り切れないほどですが、
では、日本軍があれほどの大勝利になった勝因は何だったのでしょう?
〇 敵前大回頭・・これが最大の勝因でした。
それまで、海軍関係者には、そんな事はあり得ないと考えられていた戦法だったのです。
後に言われました。
「あの海戦は最初の30分ですべてが決まってしまった」
〇 ロシア艦隊が7か月もかけて長く辛い航海をしている間、
日本艦隊は猛訓練に明け暮れていました。
1年間に使う砲弾を、たった10日間で消費する程の猛訓練だったのです。
〇 参謀の秋山真之中佐は海戦という海戦の歴史を調べ上げ、
その結果として敵前回頭(T字戦法)というのが在る事を知りました。
〇 敵前回頭という戦法を採用するにあたって、
東郷提督も、今までのロシアとの海戦(黄海海戦)などを調べ上げ、
敵に横腹を見せた場合のロシア軍の砲弾命中率をパーセントで調べ、
当たらない、大丈夫だという自信を持っていたのです。
〇 自分の身に(まさか)が起ころうと、
その後はどうすればいいかを部下に徹底して伝授していたのです。
戦闘というのは、全員が一致団結しなければならない事の重要性を教えていたのです。
一人の有能な指揮官さえ居ればいいというものではないのです。
重傷を負い捕虜となったロジェストヴェンスキー提督を、
東郷提督は見舞いに訪れました。
ロジェストヴェンスキー提督は涙を流して迎えたそうです。
彼は生涯、東郷提督を尊敬していたそうです。
しかし、後年シベリア鉄道経由で本国ロシアに帰った提督は、
国民から盛大な声援で迎えられたのですが、
裁判になりました。
彼は自分は無罪になると思っていました。
無罪となった事は間違いないのですが、兵役を解除されてしまいました。
つまり、誇り高い軍人としての地位も名誉も剥奪され、一般人となってしまったのです。
ロジェストヴェンスキー提督は、ただの人となり、
戦闘で負った傷の後遺症にも悩みつつ、日本海海戦から3年後、
人々から忘れ去られ、失意のまま60歳でこの世を去りました。
更に、ロジェストヴェンスキー提督から指揮権を任された、
ネボガトフ少将は、やはり裁判となり死刑を宣告されたのです。
ロジェストヴェンスキー提督は海戦から間もなく人事不省になってしまいましたが、
ネボガトフ少将は、戦う事もなく降伏した。
ニコライ二世はそれを許す事が出来なかったのです。
むざむざと降伏するくらいなら、全員が死んでもいいから、
ロシアという国の誇り、威信を守り抜いてほしかったのです。
ネボガトフ少将はその後、懲役10年に減刑されましたが、
その後を知る人は誰もいません。
ちなみに、バルチック艦隊とは違いますが、
旅順要塞司令官で、乃木大将に敗れたステッセル将軍も、
ロシアの軍事法廷で死刑判決となりましたが、
外国からの干渉があって、懲役刑に減刑されました。
しかし、晩年のステッセルはセールスマンとしてシベリアの地を歩き、
働いていたそうで、彼のその後も誰も知りません。