河童の歌声

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日本海海戦・・⑩

2020-05-05 12:17:44 | 歴史
明けて5月28日。
鬱陵島付近に集結していた日本の連合艦隊は、
夜明けと共に出撃しました。

敗残のバルチック艦隊を率いるのはネボガトフ少将。
午前10時頃、バルチック艦隊の乗組員たちは、
向かって来る日本艦隊の群れを見て、激しい衝撃に襲われました。
それは到底信じられないものでした。

ロシアは戦艦が8隻中、6隻を撃沈されたのですから、
日本軍の損害も大きなものであった筈が・・・
日本艦隊の主力艦は全艦が健在だったのです。
旗艦三笠にはあれほどの集中砲火を浴びせたというのに、
見る限りの三笠はマストこそ折られていましたが、
それ以外には損傷らしい損傷は認められないのです。

10時34分頃、
日本艦隊との距離が8000メートルになった時、
日本軍は一斉砲撃を開始しました。
戦艦オリョールがこれに応えて応戦を始めました。
(後に「バルチック艦隊の壊滅」書いた、
ノビコフ・プリヴォイ氏が座乗する戦艦です。)
しかし、オリョールは旗艦・ニコライ一世に、
意外な光景が繰り広げられているのを見て愕然としました。



そこには白旗(降伏を表わす旗)が掲げられていたのです。
「敵の優勢なる艦隊に包囲せられたるをもって、我は降伏す」

これを見た全ロシア艦隊に衝撃が走りました。
確かに傷ついたロシア艦隊が応戦しても、
撃沈されるのは、もう明らかでした。
しかし、自分たちは誇り高いロシア海軍だ。
全滅しようと最後の誇りをかけ決戦を挑むべきだと思ったのです。

各艦上には険悪な空気が漂いました。
しかし、司令長官が命令している以上は逆らえないと、
各艦長は泣く泣く降伏旗を掲げたのでした。

ですが、駆逐艦イズムルード艦長・フェルンゼ中佐は激昂し、
全速力で逃走し、逃げ切っていましました。

この場所ではなくても、他にも降伏を受け入れず、
死を覚悟で最後まで奮戦した艦もあったのです。
(2015年4月28日の河童の歌声で書いた、
ウシャーコフ号の最期)もそうでした。

また、巡洋艦ドミトリー・ドンスコイ号の最期も立派でした。
日本軍に完全包囲されても降伏の意思を示さず、
激しい戦意を剥き出しにして戦ったのです。
この艦は日本軍の追尾を振り切って、鬱陵島の海岸に夜陰に紛れて投錨しました。
しかし結局それ以上進む事は不可能で、自沈したのですが、艦長は死亡。
乗組員たちは島に上陸しました。
彼等は後に捜索してきた日本兵に囚われ捕虜となりますが、
最後まで戦意を剥き出しにして奮戦した、立派な最期でした。


2日間にわたって日本とロシアが、その総力をかけた決戦は終わりました。

その結果は信じられない恐るべき結果でした。
日本は勿論、諸外国もその信じられない結果に驚嘆しました。
あり得ない完全試合だったのです。


それまでの海戦で、最も勝敗に差がついたのは、
日本海海戦から丁度100年前、1805年10月21日に、
ナポレオンのフランスとスペイン合同の艦隊が、スペイン沖で、
ネルソン提督率いるイギリス艦隊と激突した、
トラファルガーの海戦です。

ナポレオン軍は33隻中22隻を失い6900人が死亡。
イギリス軍の損失はありませんでしたが、
1600人が死亡。ネルソン提督も死んでしまいました。
いくら勝負に勝ったと言っても1600人が死に、
司令官も死んでしまっては、完全勝利とは言えないでしょうね。


これに対し、日本海海戦は、
ロシアは38隻中、沈没が19隻。
捕獲されたのが5隻。
逃走中、沈没または自爆が2隻。
抑留が8隻。

ロシア本国に逃げ切った特務船1隻以外は、
ウラジオストックに到達したのは、
ヨット式の小型巡洋艦1隻。
駆逐艦2隻の、たった4隻だけだったのです。

これをひと言でいうと、全滅でした。
それに引き換え日本軍は、80トンの水雷艇が3隻沈没。

死者はロシア・4700人。捕虜6100人。
日本は、水雷艇3隻、死者107人でした。

これは、これから先の時代に海戦などという戦いがあり得ない事を考えると、
まさに空前絶後の完全試合でした。







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日本海海戦・・⑨

2020-05-05 10:24:38 | 歴史
その頃、旗艦スワロフはただ1艦で彷徨っていました。
もはや軍艦としての姿は失われ、
ただ1門の7,5センチ砲のみしか残っていません。
沈没も時間の問題となっていたその時、
駆逐艦ブイヌイがスワロフを発見して近寄ってきます。
ブイヌイはスワロフの悲惨な姿に唖然としました。
「まるで栗を焼く窯みたいだな」

コロン参謀長はブイヌイを呼び寄せ、
重傷のロジェストヴェンスキー提督をブイヌイに移そうとしますが、
海は荒れていてボートも全て焼け落ち、
非常に危険な状態での中、奇跡的に移送に成功します。

それから間もなくスワロフは日本軍に発見され、
攻撃を受けたスワロフは925名の乗組員と共に沈没して行きました。

意識の混濁したロジェストヴェンスキー提督は、
そんな中で、指揮権をネボガトフ少将に任命します。
ネボガトフ少将は分散していた艦隊を何とか寄せ集め、
隊列を組んで一路ウラジオストックを目指します。
彼等の再起する道は、ウラジオストックに逃げ込むしかなかったのです。



午後6時頃、ネボガトフ少将は、
戦艦三笠を旗艦とした第一戦隊が急速に接近して来るのを発見します。
距離7000メートル前後で砲撃が始まりました。
第三次戦闘が開始されたのです。

しかしそれは傷つき疲労しきったロシア艦隊にはあまりに過酷なムチでした。
戦艦アレクサンドル三世は、転覆ししばらく浮いていましたが、
一人の生存者もなく沈没して行きました。
それと共に、戦艦ボロジノも、
たった一人の奇跡的な生存者を残すのみで沈没。
水平線から陽が沈んだ午後7時28分に戦闘は終わったのでした。
東郷提督は、全艦隊に戦闘終了を告げ、鬱陵島に集合せよと命じます。





対馬、および北九州沿岸、山口県の日本海側沿岸では、
午後2時頃より沖合から凄まじい砲撃の音がいんいんと轟いてきました。
人々は日本とロシアの艦隊が遂に激突した事に気づきます。
彼等は大丈夫だろうかと眉をひそめ、海を眺めていました。

戦闘終了後の午後7時30分。
東郷提督は、対馬に待機させてあった、駆逐艦・水雷艇部隊に出撃を命じます。
昼間、敵艦隊を目の前にしながら引き返せと命令され、
「俺達はいったい何の為に海軍に入ったのだ。
敵を目の前にして引き返せとは、あまりじゃないか」と
悔し涙を流した駆逐艦・水雷艇部隊は、
満を持して一斉にロシア艦隊に向かって突進して行きました。

波浪は激しく各艦艇の動揺は50度から60度に達する中、
そんな事は意も介さず、
闇夜の中をロシア艦隊の姿を求めて走り回ります。

午後8時頃、ロシア艦隊を発見した艦艇は一斉に夜襲攻撃をかけました。
疲れ切って傷ついた、既に青息吐息だったロシア艦隊は、
まるで魚の群れの様に高速でまとわり付いてくる水雷艇の為に、
逃げ回り、壮絶な夜の戦場になりました



夜襲は3時間に及び午後11時頃、戦闘は終わりました。
しかし、この攻撃で戦艦ナワリンが沈没。
戦艦8隻中、これで5隻が失われたのでした。
ロシア艦隊は四分五裂となり、ヨタヨタと日本海を彷徨うばかりでした。
この夜間戦闘で日本は80トンの水雷艇3隻を失いました。

夜が明けた日本海には敗残のロシア軍艦が、
あちこちに点在し、日本軍に発見された艦はもはや抵抗する所か、
浮いているのがやっと、沈没寸前だったりで、
降伏旗を掲げる艦が多数ありました。



駆逐艦「漣・さざなみ」

駆逐艦ブイヌイは燃料が尽きかけウラジオストックまでは到底無理になり、
仕方なく重傷のロジェストヴェンスキー提督は、
駆逐艦ベドーヴィに乗り換えます。
しかし、ベドーヴィは日本の駆逐艦「漣」に発見されてしまいました。
ベドーヴィにはもはや抵抗できるものは何も残っていません。
白旗を掲げざるを得ませんでした。

降伏した駆逐艦ベドーヴィに乗り込んだ漣の士官はが、
調査の為に艦内のある一室に入ろうとすると、
ロシアの士官が何かを言いながら、しきりにそれを阻止しようとします。
塚本という士官は、ロシア兵が「アミラル」という言葉を、
繰り返していたのを思い出し、
それが「アミラル」ではなく「アドミラル」だったと気づきます。

塚本士官は手旗信号で漣に「ロジェストヴェンスキー提督を捕虜にした」と伝えました。
その瞬間、漣ではバンザイ・バンザイの激しい動きとなります。

わずか数百トンの小さな駆逐艦が、
敵の最高司令長官を捕虜にした瞬間でした。








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