明けて5月28日。
鬱陵島付近に集結していた日本の連合艦隊は、
夜明けと共に出撃しました。
敗残のバルチック艦隊を率いるのはネボガトフ少将。
午前10時頃、バルチック艦隊の乗組員たちは、
向かって来る日本艦隊の群れを見て、激しい衝撃に襲われました。
それは到底信じられないものでした。
ロシアは戦艦が8隻中、6隻を撃沈されたのですから、
日本軍の損害も大きなものであった筈が・・・
日本艦隊の主力艦は全艦が健在だったのです。
旗艦三笠にはあれほどの集中砲火を浴びせたというのに、
見る限りの三笠はマストこそ折られていましたが、
それ以外には損傷らしい損傷は認められないのです。
10時34分頃、
日本艦隊との距離が8000メートルになった時、
日本軍は一斉砲撃を開始しました。
戦艦オリョールがこれに応えて応戦を始めました。
(後に「バルチック艦隊の壊滅」書いた、
ノビコフ・プリヴォイ氏が座乗する戦艦です。)
しかし、オリョールは旗艦・ニコライ一世に、
意外な光景が繰り広げられているのを見て愕然としました。
そこには白旗(降伏を表わす旗)が掲げられていたのです。
「敵の優勢なる艦隊に包囲せられたるをもって、我は降伏す」
これを見た全ロシア艦隊に衝撃が走りました。
確かに傷ついたロシア艦隊が応戦しても、
撃沈されるのは、もう明らかでした。
しかし、自分たちは誇り高いロシア海軍だ。
全滅しようと最後の誇りをかけ決戦を挑むべきだと思ったのです。
各艦上には険悪な空気が漂いました。
しかし、司令長官が命令している以上は逆らえないと、
各艦長は泣く泣く降伏旗を掲げたのでした。
ですが、駆逐艦イズムルード艦長・フェルンゼ中佐は激昂し、
全速力で逃走し、逃げ切っていましました。
この場所ではなくても、他にも降伏を受け入れず、
死を覚悟で最後まで奮戦した艦もあったのです。
(2015年4月28日の河童の歌声で書いた、
ウシャーコフ号の最期)もそうでした。
また、巡洋艦ドミトリー・ドンスコイ号の最期も立派でした。
日本軍に完全包囲されても降伏の意思を示さず、
激しい戦意を剥き出しにして戦ったのです。
この艦は日本軍の追尾を振り切って、鬱陵島の海岸に夜陰に紛れて投錨しました。
しかし結局それ以上進む事は不可能で、自沈したのですが、艦長は死亡。
乗組員たちは島に上陸しました。
彼等は後に捜索してきた日本兵に囚われ捕虜となりますが、
最後まで戦意を剥き出しにして奮戦した、立派な最期でした。
2日間にわたって日本とロシアが、その総力をかけた決戦は終わりました。
その結果は信じられない恐るべき結果でした。
日本は勿論、諸外国もその信じられない結果に驚嘆しました。
あり得ない完全試合だったのです。
それまでの海戦で、最も勝敗に差がついたのは、
日本海海戦から丁度100年前、1805年10月21日に、
ナポレオンのフランスとスペイン合同の艦隊が、スペイン沖で、
ネルソン提督率いるイギリス艦隊と激突した、
トラファルガーの海戦です。
ナポレオン軍は33隻中22隻を失い6900人が死亡。
イギリス軍の損失はありませんでしたが、
1600人が死亡。ネルソン提督も死んでしまいました。
いくら勝負に勝ったと言っても1600人が死に、
司令官も死んでしまっては、完全勝利とは言えないでしょうね。
これに対し、日本海海戦は、
ロシアは38隻中、沈没が19隻。
捕獲されたのが5隻。
逃走中、沈没または自爆が2隻。
抑留が8隻。
ロシア本国に逃げ切った特務船1隻以外は、
ウラジオストックに到達したのは、
ヨット式の小型巡洋艦1隻。
駆逐艦2隻の、たった4隻だけだったのです。
これをひと言でいうと、全滅でした。
それに引き換え日本軍は、80トンの水雷艇が3隻沈没。
死者はロシア・4700人。捕虜6100人。
日本は、水雷艇3隻、死者107人でした。
これは、これから先の時代に海戦などという戦いがあり得ない事を考えると、
まさに空前絶後の完全試合でした。
鬱陵島付近に集結していた日本の連合艦隊は、
夜明けと共に出撃しました。
敗残のバルチック艦隊を率いるのはネボガトフ少将。
午前10時頃、バルチック艦隊の乗組員たちは、
向かって来る日本艦隊の群れを見て、激しい衝撃に襲われました。
それは到底信じられないものでした。
ロシアは戦艦が8隻中、6隻を撃沈されたのですから、
日本軍の損害も大きなものであった筈が・・・
日本艦隊の主力艦は全艦が健在だったのです。
旗艦三笠にはあれほどの集中砲火を浴びせたというのに、
見る限りの三笠はマストこそ折られていましたが、
それ以外には損傷らしい損傷は認められないのです。
10時34分頃、
日本艦隊との距離が8000メートルになった時、
日本軍は一斉砲撃を開始しました。
戦艦オリョールがこれに応えて応戦を始めました。
(後に「バルチック艦隊の壊滅」書いた、
ノビコフ・プリヴォイ氏が座乗する戦艦です。)
しかし、オリョールは旗艦・ニコライ一世に、
意外な光景が繰り広げられているのを見て愕然としました。
そこには白旗(降伏を表わす旗)が掲げられていたのです。
「敵の優勢なる艦隊に包囲せられたるをもって、我は降伏す」
これを見た全ロシア艦隊に衝撃が走りました。
確かに傷ついたロシア艦隊が応戦しても、
撃沈されるのは、もう明らかでした。
しかし、自分たちは誇り高いロシア海軍だ。
全滅しようと最後の誇りをかけ決戦を挑むべきだと思ったのです。
各艦上には険悪な空気が漂いました。
しかし、司令長官が命令している以上は逆らえないと、
各艦長は泣く泣く降伏旗を掲げたのでした。
ですが、駆逐艦イズムルード艦長・フェルンゼ中佐は激昂し、
全速力で逃走し、逃げ切っていましました。
この場所ではなくても、他にも降伏を受け入れず、
死を覚悟で最後まで奮戦した艦もあったのです。
(2015年4月28日の河童の歌声で書いた、
ウシャーコフ号の最期)もそうでした。
また、巡洋艦ドミトリー・ドンスコイ号の最期も立派でした。
日本軍に完全包囲されても降伏の意思を示さず、
激しい戦意を剥き出しにして戦ったのです。
この艦は日本軍の追尾を振り切って、鬱陵島の海岸に夜陰に紛れて投錨しました。
しかし結局それ以上進む事は不可能で、自沈したのですが、艦長は死亡。
乗組員たちは島に上陸しました。
彼等は後に捜索してきた日本兵に囚われ捕虜となりますが、
最後まで戦意を剥き出しにして奮戦した、立派な最期でした。
2日間にわたって日本とロシアが、その総力をかけた決戦は終わりました。
その結果は信じられない恐るべき結果でした。
日本は勿論、諸外国もその信じられない結果に驚嘆しました。
あり得ない完全試合だったのです。
それまでの海戦で、最も勝敗に差がついたのは、
日本海海戦から丁度100年前、1805年10月21日に、
ナポレオンのフランスとスペイン合同の艦隊が、スペイン沖で、
ネルソン提督率いるイギリス艦隊と激突した、
トラファルガーの海戦です。
ナポレオン軍は33隻中22隻を失い6900人が死亡。
イギリス軍の損失はありませんでしたが、
1600人が死亡。ネルソン提督も死んでしまいました。
いくら勝負に勝ったと言っても1600人が死に、
司令官も死んでしまっては、完全勝利とは言えないでしょうね。
これに対し、日本海海戦は、
ロシアは38隻中、沈没が19隻。
捕獲されたのが5隻。
逃走中、沈没または自爆が2隻。
抑留が8隻。
ロシア本国に逃げ切った特務船1隻以外は、
ウラジオストックに到達したのは、
ヨット式の小型巡洋艦1隻。
駆逐艦2隻の、たった4隻だけだったのです。
これをひと言でいうと、全滅でした。
それに引き換え日本軍は、80トンの水雷艇が3隻沈没。
死者はロシア・4700人。捕虜6100人。
日本は、水雷艇3隻、死者107人でした。
これは、これから先の時代に海戦などという戦いがあり得ない事を考えると、
まさに空前絶後の完全試合でした。