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戦艦・扶桑の悲劇

2023-05-02 22:05:34 | 軍艦


戦艦・扶桑(ふそう)は、1915年(大正4年)完成。
2番艦は、山城であり、1917(大正6年)に完成しました。

排水量29330トン、全長205メートル。全幅28,7メートル。
14インチ(36センチ)砲、2×6基、12門。乗組員1193名。
4万馬力。速力22,5ノット(時速42キロ)
完成時は世界最大の戦艦でした。

この2戦艦は、設計段階から問題を抱えていました。
装甲が薄く防御力で他国の戦艦に劣っていたのです。
更に最初から重大な欠陥をさらけ出す事になりました。
艦上に平均して並べられた6基の主砲が一斉射撃をすると、
全艦が猛烈な爆風に包まれ、上部構造物に障害を及ぼす事が分かったのです。

更に第三、第四砲塔が罐室(ボイラー)をはさんで前後に位置している事で、
罐室が分離する事になり、低出力しか出せないのです。
それで、22,5ノットに甘んじる事になってしまったのです。

防御力が弱く、速力も遅く、最初から二流戦艦のレッテルを貼られてしまいました。
そこで昭和5年から10年にかけて大改装が実施されました。
速力アップの為に主機械をタービン式に取り換え、船尾を7,6メートル延長したのですが、
それでも24,5ノット(時速45キロ)しか出ません。
基準排水量だけは34500トンの大戦艦になりましたが、
他の戦艦よりも性能は明らかに劣り、日本海軍の失敗作だったのです。
他の戦艦が大活躍しているのに、扶桑・山城の2艦には出撃の機会がなく、
不遇をかこっていました。



それにしても、ウネウネと天を目指してそそり立つ鐘楼は、
(違法建築)と陰口を叩かれるのも当然ですね。
軍艦設計の無能ぶりが感じられます。



山城は扶桑ほど鐘楼がウネウネしていない分だけマシですが、まあ似たり寄ったりでしょうか。
私は、個人的には山城が多少好きなんですが。

他の戦艦に比べ、出撃のチャンスが無かった両艦にも、いよいよ出番が巡ってきました。
昭和19年9月、捷(しょう)1号作戦です。
フィリピン、レイテ島にアメリカの艦隊が続々集結してきました。
これを撃破する為に、日本軍は捷号作戦を開始します。

主力は栗田(中将)の栗田艦隊。
これには、戦艦大和、武蔵といった大艦隊がいます。
扶桑・山城は、西村(中将)率いる、低速のいわゆる囮(おとり)艦隊です。
西村艦隊は戦艦2隻。重巡、最上ほか駆逐艦4隻の合計7隻。

アメリカ軍は、西村艦隊が突撃してくる事を察知していました。
10月25日、
アメリカ艦隊は、戦艦6隻。重巡6隻、軽巡4隻ほか、
多数の駆逐艦、魚雷艇などで西村艦隊を待ち受けていました。
深夜3時頃、スリガオ海峡に達した西村艦隊は、
アメリカ艦隊から猛烈な集中攻撃を受けます。
袋叩き状態になった扶桑は、多数の魚雷が命中して船体が真っ二つに割れ、
たちまち沈没してしまいました。
生存者は誰もいません、壮絶な全滅でした。

それに気が付かない山城はアメリカ軍目指して突撃あるのみ。
しかし、午前4時頃、山城も生存者10名を残して沈没します。
扶桑、山城の悲劇的な最期は、生存者が殆どいなく、深夜でもあったので、
正確なところは不明だった様です。

西村艦隊7隻で、生き残ったのは、駆逐艦「時雨」1隻だけでした。
レーダー能力の差、速力の遅い旧式戦艦での無謀な突撃。
6隻の戦艦に囲まれた2隻の旧式戦艦の最期はあまりにも悲劇的でした。
あわれとしか言いようがありません。


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