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幻の巨大空母、信濃の悲劇

2024-08-09 18:45:08 | 軍艦


日本に信濃という巨大な航空母艦があった事は、殆どの日本人は知りません。
世界最大の戦艦に、大和と武蔵がありました。
しかし、この2艦は徹底的な秘密主義で建造された為、
ごく一部の海軍関係者しかその存在を知らず、
日本人の大多数は戦後になって、初めて日本に世界最大の戦艦があった事を知ったのです。

この戦艦・大和、武蔵には実は3番艦があったのです。それが、戦艦、信濃でした。
更に、4番艦に予定されていたのは、戦艦、紀伊でしたが、これは建造中止になりました。
しかし、真珠湾攻撃の開戦からたった半年後の、昭和17年6月、
太平洋のど真ん中ミッドウェー諸島で始まったミッドウェー海戦で、
日本海軍は虎の子の正規空母(初めから航空母艦として設計された空母)4隻。
赤城、加賀、飛龍、蒼龍の4隻全部を沈められるという大敗北を喫します。
海軍はあまりの事態に、色を失い呆然自失。
この時点で戦争の勝敗は決したと言っても過言ではなかったのです。
太平洋戦争が、アメリカには絶対に勝てない事を知っていた、
山本五十六大将が言った「1年間は暴れてみせましょう」は不可能に終わりました。

海軍は、大型空母の無くなってしまった航空戦力を立て直す絶対的な必要に迫られ、
大和級戦艦の3番艦であった「信濃」を航空母艦に造り直す事になりました。

世界最大の戦艦が、空母になるのですから、その巨大さは世界最大です。
アメリカ最大の空母レキシントンが36000トンだったのに比べ、
信濃は66000トン、全長266メートル、全幅40メートルでした。

戦艦大和は広島県、呉で建造され、
武蔵は長崎での建艦。
そして信濃は横須賀で建艦されました。
3隻とも厳重な国家機密だったので、ドックが超大型艦用に深く掘り下げられ、
横に不要な建物を建てたりして、ベールで覆い隠されました。



何しろ、戦艦として万全の防御板を持った船体が、航空母艦になるのですから、
不沈空母と言ってもいい鉄壁な空母でした。
飛行甲板も従来の空母からは考えられない分厚い装甲が施され、
これが海戦に乗り出していったら、アメリカの攻撃機もきっと戸惑ったと思います。
戦艦大和や、武蔵が10本、あるいはそれ以上の魚雷が打ち込まれても中々沈まずでしたから。
こうして信濃は、重防御の強力な空母だったのです。

完成は昭和20年3月の予定でした。
しかし、19年6月のマリアナ沖海戦で再び強力な空母を失い、
海軍は信濃の完成への圧力をかけ、完成を催促したのです。
昭和19年10月、信濃は完成しました。

しかし、軍艦を完璧な形で完成させるには、各種の試験が絶対に必要なのです。
連日の突貫工事と戦争による熟練工の損失などが重なり、
信濃での試験は最小限となり工事促進が優先されたままでした。
そんな状態のまま、信濃は最後の艤装工事をする為に呉に回航する事になりました。



昭和19年10月28日、信濃は3隻の駆逐艦に護衛され、
横須賀から呉へと向かいました。
しかし、信濃はアメリカの潜水艦がその後をつけていたのに気づきませんでした。
翌、29日未明、4本の魚雷が信濃の船体を射抜きました。
そして被雷から7時間半たった頃、信濃は徐々に沈んでいったのです。

信濃の防御力から言えば、同じ船体を持った武蔵は20本以上の魚雷で沈んだ。
大和も武蔵ほどでは無いが、多数の爆弾攻撃まで受けて沈んだ。
それが何で、たった4本の魚雷で沈んでしまったのか?

やはり完成を急ぐあまり、各種試験の省略。
そして最も失敗だったのは気密試験の省略。
気密試験は艦内各区画の防水性を保つには絶対に必要だったのです。

信濃は完成(厳密には未完成)からたった10日後に沈没しました。
世界最大、世界最強の航空母艦は、
日本国民の大多数に知られる事なく、10日間の幻の巨大空母だったのです。
その為に1435名の命が失われていきました。



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