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南極観測船・宗谷

2018-11-18 15:47:22 | 船舶




南極観測船というと、
やはり最も有名なのは、初代観測船(宗谷)ではないでしょうか。



その宗谷は、現在は東京・台場の(船の科学館)に展示されています。
船の形をした建物の右側に係留展示されていますね。

私もずっと以前に見に行った事がありますが、
それを見た第一印象は(とに角小さい)でした。

そうなんです、
南極観測船・宗谷は、
基準排水量3800トン・全長82、3m・幅12,8、m。
出力1597馬力・速力12,1、ノット(時速22キロ)なのです。

この小さな船ではるばる地球の端まで行ったのかと思うと、
その頼りなさにビックリさせられます。



南極観測船は現在は宗谷の後に、ふじ。
3代目は、しらせ。
4代目は、しらせと名前は同じですが、これは2代目のしらせです。

この4隻を並べた写真です。
一番右の帆船は無関係ですが、
その隣の小さいのが、宗谷。
左側の現在の、しらせと比較すると、その小ささがよく分ります。

4代目のしらせは、
排水量12650トン・全長138M・幅28M・3万馬力・
速力19,5ノット(時速35キロ)ですから、比較になりません。



砕氷船というのは、文字通り、氷を砕くのですから、
独特の船体構造をしています。
左側が船首ですが、普通の船と違って凹みがあります。
船首は勿論、普通より分厚い鋼材で造られていますが、
最初は体当たりで氷を砕きますが、それで割れない場合は、
凹みの部分を氷に乗り上げ、船体を上下に揺すって船の重みで氷を割るのです。
ですから、軽い船ではあまり厚い氷を割る事はできません。

宗谷が厚い氷に身動きできなくなり、
当時のソ連の砕氷船に助けられた事もありました。


そもそも宗谷という船は、
そのソ連(当時のロシア)から、1936(昭和11年)
日本の造船所に耐氷構造貨物船として3隻の発注を受けた船でした。
1938(昭和13年)にロシア名(ボロチャベツ)として完成しましたが、
日中戦争の激化に伴い、ロシアへの引き渡しが不可になります。

ボロチャベツは日本船(地領丸)となりました。
他の2隻は、それぞれ、天領丸・民領丸となります。
これらの船には砕氷・耐氷能力と、音響測定器(ソナー)が装備されていました。

1939年、帝国海軍は、
後の宗谷になる、地領丸を買い取ります。
他の2隻は陸軍が買い取ります。

1940年から戦争終結の1945年まで、帝国海軍の特務艦として、
武装を施し特殊な任務に着きます。
1943年にはアメリカ潜水艦から魚雷攻撃を受けますが、
魚雷が不発だったという幸運に恵まれます。

戦争が終わった時、他の2隻の同型船は潜水艦攻撃により失われていました。
宗谷だけが戦争を生き抜いたのです。

戦後は武装を解除し、戦地からの引き揚げ船として、
1948年まで19000人の引き揚げ者を日本に運びました。

その後は、灯台補給船としての任務に就いていました。
映画「喜びも悲しみも幾年月」には、灯台補給船時代の宗谷が登場しているみたいです。

1957年から1958年に開催される、
国際地球観測年に合わせて、日本は南極観測を行う事とし、
それに伴って宗谷が観測船として選定されました。

当時、宗谷は船齢18年の老齢でした。
船の寿命は20年といった時代ですから、
18年の宗谷に批判的で、南極までたどり着くのは無理だという、
意見もあったのですが、
他に最適な船体は難しく、戦争中の強運もあって決定された様です。

現在、船の科学館に在る宗谷は、
かつてはれっきとした帝国海軍の軍艦であり、
それは現在残っている唯一の帝国海軍の軍艦なのです。










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