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三毛別羆事件・・後日談

2023-12-14 13:41:50 | 事件・事故
先月、11月13日に、
「日本最大の獣害事件・・三毛別羆事件」を書きましたが、
その事件には長期間に及ぶ、後日談があります。





北海道・苫前郡三毛別地区で死者7人を出す、羆獣害事件が起こったのは、
1915年(大正4年)12月9日~14日までの6日間の出来事でした。
その時、2番目に襲われた家で、気絶して生き残った少年がいました。
それが三毛別区長であった大川与三吉の息子、当時6歳の大川春義でした。
春義は父親から「お前はマタギになれ」と言われ、
春義本人も幼かった自分の目の前でヒグマに喰われる人達を見ていた惨めさ、口惜しさがあるので、
自分は大人になったら、絶対に仇を打つ、
殺された人、一人につき10頭のヒグマを撃つと誓ったそうです。



春義は、三毛別事件の巨大羆を撃ち取り、
生涯に300頭の羆を撃ち取った伝説のマタギ、山本兵吉を師と仰ぎ、
マタギへの道を歩んで行きました。
しかし、いざ羆に相対すると、あの、子供の時の恐怖から怖気づいてしまい、
発砲する事が出来なかったのです。
春義が初めて羆を撃ち取ったのは、32歳の時でした。

春義は念願であった人間一人に付き10頭の羆。
7人の犠牲者で、70頭の羆のと殺を、ある日遂に達成したのですが、
その腕前から、周囲の人達から是非続けてほしいと頼まれます。

しかし春義は、ただ憎さから羆を撃ち取るのではなく、彼らに対する畏敬の念を持ち続け、
子熊をかばう母熊を撃ち取る事を躊躇する一面もあったそうです。
1977年(昭和52年)初めて羆に挑んでから37年、
遂に100頭の大台を達成しました。
春義の活躍により、1904年から三毛別事件までの10年間に、
死者46名、負傷101名、牛馬2600頭に及んでいた被害が、
春義の活躍により、その被害は1/3にまで減ったそうです。



事件後、無人となってしまった苫前町が町おこしの為に、
記念碑を設けたのは、事件から75年後の1990年の事でした。
春義は「本当に悪いのはヒグマではなく、彼等の住み家を荒らした、
私達人間のほうではないか」
そういったことを言う時もあったそうです。

1985年12月9日、三毛別事件の70回忌の法要が行われました。
76歳の大川春義は供養祭の行われる小学校での講演を始めた時に、
突然、バッタリと倒れ、そのまま息を引き取ってしまいました。
その日はまさに三毛別事件から丁度70年目の日だったのでした。





春義の長男である大川高義もまた、羆狩りの猟師として活躍し、
「北海太郎」と呼ばれた巨大羆を8年間の追跡の後、撃ち取ったのです。
それは、三毛別の羆が380キロだったのに対し、500キロという巨大さでした。

かつては日本の領土でもあった樺太(現在のサハリン)は、
羆の密生地でもあり、北海道以上に羆による悲惨な獣害事件が多発しています。

現在の日本では羆を射殺すると、
「可哀想だから熊を殺さないで」といった幼稚園児なみの幼い電話、
メールなどが多数寄せられ、現地では業務妨害として、即、電話を切るそうです。
先日も、大都会札幌の市街地で真昼間、歩行者が後ろから襲われ、
大怪我を負うという信じられない事件が起きています。
それでも「熊が可哀想」って、被害に遭う人間はどうなってもいいのでしょうか。

人間が羆の生活圏に入り込んでいるのは確かかもしれませんが、
どこかで線引きして、お互いの生活圏を犯さないようにしないと。
この問題は複雑で、単純には行きませんが、早急に何とかしないと、
羆が生息している地域の人々の安全は危険性が大きくなるばかりですね。


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