昨日の朝日新聞のコラムに蕪村の朝顔の句が載っていました。
〈朝がほや一輪深き淵のいろ〉
です。このコラム氏によると「此の絶品の前では、数多(あまた)の朝顔の句は影が薄いという人もいる。」そうです。藍色でしょうか淵色の朝顔を愛でている句だと云うことは分かりますが、どうして絶品なのでしょうかね。
変なことから、三度も、このブログに蕪村の句を取り上げようとは思わなかったのですが、芭蕉同様に蕪村のそれにも数多の秀句があることには間違いない事ですが、一寸この句に興味がありましたので、取り上げました。
朝顔が秋の季語だと云うことも知らないでいた私の無学さを恥じながらですが、この句について考えてみました。
先ずは、「澗水湛如藍」から行きます。禅語だそうで 、「かんすいたたえてあいのごとし」と読み、「水は無色だが満々と湛えた 淵では深い藍のような色になる。変化の中に不変の真理が宿っていること」という意味なのだそうです。
本来は無色透明で、色などあるはずがない水も深い淵にたまると、何も加えないでも、又、何もしないでも、自然と藍色という神秘な色が生まれ出て来ます。水を湛えた深い淵の色と同じような藍色を呈している朝顔を見た蕪村は、その広大無辺なる無限な不変な色を、たった一輪の朝顔という有限なる狭小の変化の世界に引き込んで、そこに描かれている色を水墨画的に捉えて、蕪村独特の薄墨色をした句にしつらえたのです。無と有の一瞬を感覚的に捉え、それらを無窮の世界まで広げた凛とした句だと思われます。
話は変わりますが、「群青」という谷村新司の歌を久しぶりに聞きました。その歌の感じと、この句の感じがどことなく似通った点があるのではないかとも思いながら。淵のいろというのはこの群青でもいいのではないでしょうか???
猶、句集にある「淵のいろ」の次の句には、「朝皃や手拭のはしの藍をかこつ」と、ありますから、この淵の色を、蕪村は「藍」と捉えていたのではないかと思われます。
〈朝がほや一輪深き淵のいろ〉
です。このコラム氏によると「此の絶品の前では、数多(あまた)の朝顔の句は影が薄いという人もいる。」そうです。藍色でしょうか淵色の朝顔を愛でている句だと云うことは分かりますが、どうして絶品なのでしょうかね。
変なことから、三度も、このブログに蕪村の句を取り上げようとは思わなかったのですが、芭蕉同様に蕪村のそれにも数多の秀句があることには間違いない事ですが、一寸この句に興味がありましたので、取り上げました。
朝顔が秋の季語だと云うことも知らないでいた私の無学さを恥じながらですが、この句について考えてみました。
先ずは、「澗水湛如藍」から行きます。禅語だそうで 、「かんすいたたえてあいのごとし」と読み、「水は無色だが満々と湛えた 淵では深い藍のような色になる。変化の中に不変の真理が宿っていること」という意味なのだそうです。
本来は無色透明で、色などあるはずがない水も深い淵にたまると、何も加えないでも、又、何もしないでも、自然と藍色という神秘な色が生まれ出て来ます。水を湛えた深い淵の色と同じような藍色を呈している朝顔を見た蕪村は、その広大無辺なる無限な不変な色を、たった一輪の朝顔という有限なる狭小の変化の世界に引き込んで、そこに描かれている色を水墨画的に捉えて、蕪村独特の薄墨色をした句にしつらえたのです。無と有の一瞬を感覚的に捉え、それらを無窮の世界まで広げた凛とした句だと思われます。
話は変わりますが、「群青」という谷村新司の歌を久しぶりに聞きました。その歌の感じと、この句の感じがどことなく似通った点があるのではないかとも思いながら。淵のいろというのはこの群青でもいいのではないでしょうか???
猶、句集にある「淵のいろ」の次の句には、「朝皃や手拭のはしの藍をかこつ」と、ありますから、この淵の色を、蕪村は「藍」と捉えていたのではないかと思われます。
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