私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「小雪物語」 正座するお喜智さま

2007-05-02 19:19:37 | Weblog
 幕が閉まりました。それでも、小雪にはもう起き上がるだけの気力も残ってはいませんでした。ただそこにしゃがみこんでじっとしていました。お喜智さまは、小雪の側に駆け寄り、しっかとその胸に抱き起こします。
 「小雪さん、しかりして。美しかったよ。本当の天女ですよ」
そんな呼びかけの声は、届いていないのでしょう、目を閉じたまま動こうともしません。お須香さん、おきくえさん、お光さん、お以勢さんが、反対の左の袖口から菊五郎さん、十徳さんも心配そう顔を覗けます。
 幕の向こうでは、山をもゆすらす如くに、ものすごい拍手の渦が巻いています。「小雪」「小雪」という大声で、その場へ立ち上がって叫ぶ人達が堰を切ったように、次から次へと続きます。会場は、それこそ騒然としてどう収まりつくのかという空気が立ち込めます。
 そんな座席の嵐のような様子も、小雪の耳には届いてはいません、目を瞑ったまま安らかな寝息さえたてながらぐったりと体をお喜智さまに預けたまま横たえています。
 「誰か、中町の梁石先生をお呼びして、早く」
 お喜智さまのせっぱ詰まったようなお声。丁度、そこへ駆けつけた万五郎さんが
 「おい、三、はよう先生を呼んできな」
 ちらりと後ろにいた乾児の一人に向かっていいます。三と、呼ばれた、いかにもすばしっこさそうな若者は、もう駆け出してそこにはいません。
 「お喜智さま、大丈夫でしょうか」とこれまた心配そうな声。
 お智香さまの膝の上で、まだ小雪はぐったりとしたまま横たわっています。
 お喜智さまは、お須香さんや飛んできたお粂さんを促して小雪の帯をおゆるめになりました
 幕の外は「小雪」「小雪」で殺気立つような気配です。万五郎さんはどうしていいものか判断がつきかねたように、中腰のまま、小雪の顔色でも確かめるように、左の方に一歩よりました。その拍子に、小雪の帯絞めの左側に付けていた亀房が、何かの拍子に落ちていたのでしょう、踏みつけます。「ぐしゃっ」とあるかなきかのような音が舞台に立ちます。その音に、小雪はふと我に返ります。しかも、あのお喜智さまの腕の中ではありませんか。
 「あ、お、お喜智さま、もったいのお・・おす」
 「気が付いたね、小雪さん、よう我慢したね。黙って、そのままに、そのままに、今お医者さまが来るからね」
 幕の外は、合いも変わらず「小雪」「小雪」で、何か不穏な騒然さに変わってきているような気がします。そんな様子に万五郎親分さんも何か苛立ちを隠せません。
 「ちょっとお須香、ここを変わっておくれ。小雪さん一寸待っててな」
 と、おっしゃられて、小雪をお須香さんに、そっとお渡しになられました。誰もが「どうして」という風に思いました。そんな中、お喜智さまはしゃんと背筋を伸ばされ、両の手を襟におやりになり幾分乱れたお着物をお直しになり、舞台の中央にお進みになられました。なにやら幕引きの人におっしゃられていましたが、幕の真ん中あたりがやや後ろに引き下げられ、その中に、さっともぐるようにして出て行かれてしまいました。本当にあっという間の出来事のように思われました。
 出て行かれたほんの一時,会場はしんーとなりました。が、桟敷にいた人達の期待とは随分違っているのに気付き、再び。険悪な空気にさへ変わっていくようです。お喜智さまは黙ってお座りになり、深々と頭を舞台の板に擦り付けんばかりにお下げになっておられました。
 誰かが
 「ばばー、引っ込め」
と、罵声を上げます。すると、突然、そのお声を待っていられたのではと思うほど毅然と、お喜智様は顔を御上げになり、ただ真正面をじっと見つめられながら正座なさいました。
 「引っ込め」という罵声は相変わらず、あちらからもこちらからも、左からも右からも聞こえてきます。でも、「ばばー」という言葉は、もうありません。それでも、お喜智さまは微動だにしない姿勢でじっと真正面を、何時までも見つめておいででした。一分の隙もないようなぴんーと張り詰めたそのお姿に、見ている者総てが圧倒されていくよう気分に包まれていくのでした。そんな空気に押し込められたかのように、不思議なことですが、今までの罵声の入り混じった騒然さは突然に打ち消され、声一つないシーンとした静閑な場に全体が覆い尽くされていきました。
 細谷の晩春の生暖かい風が、木々を揺り動かし「ざわっ」と音を立てながら流れ下り、心地よく人々の頬を撫でて流れていきました。その時を待ていたかのように、お喜智さまは、まず、正面に、それから左右に丁寧にゆっくりと大きくお頭をお下げになられました。それから、一呼吸置いて、ゆっくりとした口調で、りんとして言われるのでした。
 「本日は、遠路、多くの皆様方のご来場賜りまして、ありがとうございました。厚く御礼申し上げます」
 それだけ言って、お喜智さまは、ゆっくりと、まだほんのりと昼の名残を惜しそうにわずかばかりに残している西の空へお顔をお向けになられます。
「さて、ただ今は、小雪に対して、それはそれは特別なご声援いただきありがとうございました。・・・・・・ 本来なら、小雪が親しく皆様に直接ごあいさつ申し上げる筋ではございますが、小雪になり代わりまして、私、堀家の喜智が御礼申し上げます。
 今、小雪は、精も根も、あの舞と共に天高く舞い飛んでいってしまい、体だけを舞台の片隅に横たえております。・・・立ち歩く気力も言葉さへも消えうせて、あの天女のように空の彼方を、夢の中で、なお、舞い飛んでおりま。・・・・・・・ 生まれてこの方、何時もいつも我慢に我慢を重ね、それが自分の生きる唯一つの道だとしながら、何もかも堪えて耐えて生きてまいりました。心の臓が張り裂けんばかりの苦しさをも乗り越えて踊り続けてまいりました。瘠せ我慢だと静かに笑いながら皆様にご披露申し上げました。・・・今は、もう小雪の体には、本当に、これっぽちの精も根も残ってはいません。・・・・・皆様にごあいさつ申し上げる気力も、もうありません。しばらくの間、どうぞ小雪を、小雪を休ませていただけないでしょうか」
 お喜智さまは目にいっぱい涙をためて、真っ直ぐ前を見たまま静かに静かにゆっくりと説き伏せるように言葉を投げかけられました。その涙が固まりになって、一筋さっと流れ落ちました。
 知らない間に、お喜智さまの横には、きくえさんとお光さんの二人も並んで深く深く頭を下げておられました。
 突然
 「がんばれ小雪」
 という言葉が桟敷から飛んできました。それをあいずにそこにいた総ての人達から一斉に、拍手が沸き起こります。と、その途端に、これも誰かが「もおいい、静かにせえ」と、それが合図であったかのように、あれほど荒れ狂うばかりに騒いでいた人達が、だんだんにその場から、静かにお立ちになられ、潮が引くように、お宿の方にお帰りになられていかれるのでした。
 しばらく、その場で、お喜智さまはお帰りになる人達を見送られていましたが、再び、小雪の側に駆け寄って行かれました。もう梁石先生もお見えになり、小雪を診察してくださっておられました。