私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

鹿の肉

2007-05-25 22:17:29 | Weblog

 この日記を読んでいると、当時(1788年ごろ)の日常の庶民の生活がよく分ります。 
 たとえば、岡山赤穂屋で、「刺身が出た」と、ありますが、正月の事ですから、この刺身は、多分、鰤(ぶり)だと思われます。凍った脂身の多い鰤ならゴリゴリと音を立てた歯ざわりが、江戸のお人には感じられたのでしょう。鮪では決して味わえない感じだと思います。
 吉備地方では、お正月と言えば鰤がつき物です。現在でも、北房地方には、鰤市が旧正月前には立ちます。又、この冬の季節、此処では余り火事がないと、江漢は、特に書いています。江戸のような空っ風が吹かないので、火事は大変少なかった事を聞いて驚いたのでしょう。 また、昼食に白魚が、平皿に大盛り出たと記されております。しかも、その値が一升三文だとも。当時、蕎麦でも、一杯十六文したそうですので、如何に安価であったと言う事が分ります。 
 その次の朝四時ごろ、江漢は、岡山石関町を出て、足守を目指します、足守まで4里。途中、宮内の「菊屋という揚屋に立ち寄る」と、書いています。
 でも、それから約50年後の岡田屋熊治郎の時には、既に、この菊屋という名は、吉備津の町屋の何処にも見当たらないのです。また、そこの妓が縞縮緬毛留の帯をしていたと記されています。でも、どんな帯か分りません。知っている人教えてください。
 
また、
鼈甲の簪や笄とはどのくらいの技(遊女かも)が身に付けているのかも分りませんが、ある程度、上級のあそびめが身に付けていたのではと思われます。
 夕方まで、この「菊屋」にいて、4時ごろ足守へ向かったようです。
 
 
それから江漢は、
木下侯を訪ねます。前日木下侯が鹿狩りをした時に捕らえた3匹の鹿の肉の一部を賜ったことなど記しています。
 このところで面白いのは、貰って帰った鹿の肉を、足守の備前屋の料理人が、吉備津の宮の氏子で、調理するのを随分と嫌がったことが記されています。
 これは、明治の何時頃までかは不明なのですが、吉備津では、イノシシ、シカなどの獣を食べる事は忌諱に触れる事として、氏子は、絶対にしてはいけないことにされ、大変恐れられていたと言う事です。
 まあ、それは兎も角として、この吉備の地方にも、沢山の鹿が野山を駆け回ってていたと言う事は確かなようです
 でも、なぜか吉備の中山だけには、鹿も猪も、一頭たりとも見かけなかったと、言い伝えられています。
 吉備の中山には一匹の獣もいないのか、又、吉備津の宮の氏子が、なぜ、獣の肉を忌み嫌ったかと言う事は、次でご説明します。