私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

『小雪物語」完   玉樹涼陰信女

2007-05-06 19:15:51 | Weblog
 小雪の急変を聞き、お粂さんが飛び込んできました。お滝さんも駆けつけます。
知らせを受けた梁石先生もこられました。ややしばらくしてお喜智さまも駆けつけてこられました。
 「心の臓の病は今の医術ではどうする事が出来ないのだ。よくも3日も命ながらえたのだ。よく頑張ったと皆で褒めてやってくれ」
 と梁石先生。
 お須香さんが「わっ」と小雪の体を抱き寄せます。お粂さんもお滝さんも小雪の亡がらにひれ伏します。お喜智さまは、小雪の手を握り締めながら
 「よう踊られましたな・・小雪さん。菊五郎さんはあれからすぐ江戸のお仕事が待っているのだと言われお帰りになられました。あなたに是非伝えて欲しいとお話になられました。『どんな名優にも、決して負けることのないような小雪のへだて心を、よくぞ舞いおおせたものだ。美しかったよ。きれいだったよ。立派だったよ』と。・・・・・・・・私も、小雪さんの真に迫る芸を見せてもらいした。瘠我慢が造り出した芸を見せてもらいました。命を張ってまで、よう頑張りましたね。芸は人の心がにじりでるものですね。ねじれた汚い心を持った人が、いくら熱心に舞ったとしても、真っ直ぐな純な舞は舞えるものではありません。本当の舞を見せてもらいました。菊五郎さんの言われたへだて心とはこの一筋の真っ直ぐな心ではないでしょうか」
 涙を目にいっぱいためて言われました。
 そこへ、ようやく鳴竈会も済んで一段落していたのでしょう万五郎さんが、きくえさんとともどもかけつけてきます。
 「小雪どうした。・・・・各地の親分さん方も、小雪の踊りがもう一度見たいと、随分褒めておられたぞ。どうして死んだ。小雪。・・・・・・林の旦那さんもびっくりするぞ。きっと・・・・」
 といったまま天を仰ぎます。ふと、何を思ったか、急に立ち上がると、違い棚にある袋戸棚から何かの書付を取り出します。
  「小雪の証文だ。林氏さまからお預かりしていたのだが・・」
 と言うと、顔を上に向けられたままで、その紙切れをびりびり、びりびりと細かく細かく引き裂れ、それを両の手の中に堅く握りつぶされたまま、じっと小雪の亡がらを見つめておいででした。
 翌日、普賢院の宥慈住職さまに『玉樹涼陰信女』という戒名をお喜智さまが頂いてまいられ、慎ましやかな葬儀が、片山の墓地で細々と営まれました。

時は瞬く間に過ぎ行きます。やれ本宮祭だ、正月だ、夷さまだ、と、言う声が聞こえてきたかと思う間もなく、里中が、再び、美しく咲き出してきた桜の花びらに浮かれ狂います。
 あれ程、大騒ぎした鳴竈会のことも、小雪のことも、今では、もう殆どの人の口から消えうせてしまいました。
 卯月4日、片山の墓地に、お喜智さま、お須香さま、万五郎親分それとお粂さん、それに今年は珍しくくらしきの林さまのお姿が見えます。
 普賢院のご住職宥慈和尚をおむかえして、簡単なごく身近な者だけで、小雪一周忌の法要をしていただいています。
 お喜智さまのお手には、林さまがわざわざ江戸より持ち頂いた一幅の掛け軸がありました。
 林さまのお話ですと、小雪が舞ったあの夜、安芸の宮島からの帰路、たまたま勝川春扇という江戸の浮世絵師の方が板倉の宿にお泊りでした。 宿のお人に勧められたのでしょう、「宮内総おどり」を旅のつれづれに見られたということです。そして、小雪の舞う花魁道中にいたく心を動かされ、その姿を写し取ってお帰りだったそうです。その後、江戸に帰られた春扇さんは、それを「吉備の涼風」という名で錦絵にしあげて売り出されたそうです。それが、又、大評判となり大売れに売れたということだそうです。
 
 宥慈和尚の読経が済んで、お喜智さまは手にされていた林さまから江戸土産として頂いた『吉備の涼風』の小雪の舞い姿のお軸が、出来上がったばかりの真新しい一尺三寸ばかりの小さな小雪のお墓の前に吊り下げられました。その墓石には、戒名の横に、これもまた小さく京都俗名小雪 行年二一才、嘉永六年四月四日寂と記されておりました。
 「お見えかい。小雪さん。小雪さんのへだて心の舞い姿だよ。立派な瘠我慢んの細谷の歌だよ・・・・」



 細谷の清い流れの音がさやけく、吉備の小山に響いて聞こえます。そよそよと初夏の細谷の涼風も吹き下りてきます。
                        完