私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語ー小雪の涙

2012-05-09 18:30:14 | Weblog
   でも、そんな小雪の心を知ってか知らでか、喜智さまはその女の人に、一語一語噛締め確かめるように語り掛けられました。
 「お須香さん。今なんとお言いでしたか。」
 そのお声はどこまでも物静かで、どこか悲しさを懸命にかみ殺しているような、また、こみ上げてくる怒りをぐっと胸奥に押えているようなお声でお話になられます。
 「ここは、今、あなたがおっしゃったように我家の堀家の奥座敷です。なにも特別なところではありません。誰が入ったとしても別に穢れたり傷ついたりするものではありません。昨日のままのお部屋に変わりありません。部屋は部屋です。人が入って暮らすところなのです。ただの物なのです。穢れるとは何ですか。泥でも付いて汚れますか」
 大きく一息いれて、また、ゆっくりと言葉強く、きっぱりと言われました。
 「部屋に、どんな人がいようと、部屋は部屋です。何も以前とはちっとも変わりません。人の思いがこもるところではないのです。お須香さん、今、この小雪さんに向かって汚らわしいとお言いでしたね。汚らわしいとは何です。その穢れているお部屋に座っている私も林様も汚らわしいのですか。部屋が穢れるのであれば当然人も穢れるはずです。人は人です。部屋と同じで穢れたりはしません」
 小雪も、この奥様は一体なにを言い出されるのかと不思議な思いで聴いていました。そのお女の人も、私と同じように奥様は何を言われるのかと不思議そうにお聞きになっていらっしゃいました。ただ、林さまは、奥様のお言葉がお分かりになるのか、いままでの堅苦しさが抜けたように、にこやかに静かにお耳を傾けられていられるようでした。
 「お須香さん、お前さんも知っての通り、もうおとどしになるかしら、残暑の厳しい長月に入ったばかりの頃だとと思いますが、洪庵の適塾の福沢さんというお人がお国の豊前中津へお帰りの途中とかで、おみえになり、家中、お須香さんも入れて、豊子さんも幼い作之丞まで皆でお話を伺ったことがありましたね」
 ちょっと庭のほうを見られながら、又、
 「その時、福沢さんは言われました。お須香さんは覚えているかしら。侍、百姓、町人それぞれ、身分は違っていても、人としてはみんな誰も同じだ。『泣くし、笑うし、しゃべるじゃないか。天は人の下に人を作らず』と。そんな世の中を目指して、適塾の人達は学んでいるのだと」
 じっと移ろうような目をしながら説き聞かせるようにおっしゃられるのでした。
 「けがらわしいとはなんです。どうして汚らわしいのですか。所詮、此の世に生きているものは多かれ少なかれ、どんな人でも、みんな、人には話せないような弱みや汚さや醜さを持って生きているのです。偽りの渦巻いている汚い世の中なのです。この小雪さんは薄汚れていますか。何処が穢れていますか。あなたが言う見ず転芸者ゆえに穢れているのですか。いつか、土砂降りの雨の日に、城の内で、お須香さんは下駄の鼻緒をすげてもらったというではありませんか。優しい心のきれいな人でなかったら出来るものではありません。まして、今日は、林さんのお客様でもあるのです。お須香さんが言うように決して穢れているのではありません。人は人です。きれいも汚いもありせん。穢いとは人の心が、そう決め付けているだけです。ひとのこころはだれでも、福沢さまが言われたように皆同じなのです」
 小雪は、自然なつくろいも何もない、さりげない、このお須香さんだけに言うのではなく、誰に言うともなく、むしろ自分自身に言い聞かせるように語り掛けるように言われる、この喜智さまの言葉が、何かありがたいお経でも聞いているかのように覚え、今までに降りかかった数々の自分への飛語と相まって、無償に悲しさが広がり、涙がこらえようとしてもこらえられず後から後から頬を伝って膝に流れ落ちるのでした。汚らしい汚れた自分自身だ、と、自分でも観念したように諦めて、そのどうしようもない『穢れている』という言葉を自分自身に言い聞かせ言い聞かせしながら生きてきた今までの自分の辛さが涙となっで、次から次へと零れでてくるのでした。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿