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「共に福音に与るために」

2024-04-28 14:05:30 | メッセージ
主日礼拝宣教 Ⅰコリント9・19~27                

四月も四週目を迎えますが、朝の光を受けた木々の新緑に心和む時節になりました。教会玄関前のバラ(アンジェラ)も開花し始めました。一方で今年も猛暑が予想されます。
今年3月に「外国人国籍者の永住許可取り消し法案」が閣議決定され、4月から国会で審議されています。一昨日はこのことを受けて外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会(外キ協)等が主催する緊急集会にオンラインで参加しました。この法案は倒産、失業、大病をして、税金や社会保障料支払うことができなかったり、在留カードの不携帯、その更新を怠った場合、又僅かな罪等で執行猶予になった場合等で長年かけて取得した永住権を取り消されてしまう、強制退去となるような法案だということを初めて知りました。集会では諸教会につながる外国人国籍の方、その家族の方、教会の方からの不安と戸惑いの声をお聞きしました。病や資産の問題等は誰にでも起こり得ることでありますから、もし自分や家族がそのような対象になったらと考えますと、それは大変なことです。願わくば、日本で移住生活をされておられる方々の命と尊厳とが守られますよう、祈りに覚えていきたいと思いました。

さて本日は、先ほど読まれましたⅠコリント9章19節~27節よりみ言葉を聞いていきます。
パウロは、19節で「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」と述べます。
彼はキリストに出会う前は神の律法を規定通りに細かに守っていました。律法を守らない者を裁き見下し、律法そのものを否定しているように思えたクリスチャンを激しく迫害しました。
けれどもパウロは復活の主イエスと出会った時、その律法の本質といえる「神の愛」を知って打ち砕かれました。そうして自由な者とされたのです。それは囚われからの解放であり、まさしく救いでありました。この「福音」を伝えずにはいられなくなったパウロは、できるだけ多くの人たちを救いへと獲得するため、奴隷のようにすべての人に仕えるようになった、という事です。
どのようにかと言いますと、20-23節にあるように、「ユダヤに対しては、ユダヤ人のようになりましたユダヤ人を得るためです。・・・律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。・・・律法を持たない人(異邦人)に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人には(ここでは信仰における確信がないまま偶像にささげられたものを食べて心痛めたりと、誘惑にからめとられていく人)に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてにものになりました」とパウロは述べています。
そこには、23節「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と言う福音伝道のパッションがありました。けれどその情熱の原動力は、「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるため」だと言うのです。あらゆる人と「わたしが福音に共にあずかる者となる。」そのためにパウロは「どんなことでもする」とまで言うのです。

祈祷会の聖書の学びの時に、ある方がこの箇所を読まれて、「クリスチャンになったばかりの時は福音に共に与るということを考えたこと、思ったことがなかった。ここで、パウロはどんな人にも福音を伝えるということを書いている。相手に一方的に福音を伝える以前にその人との関係が築いていき、そういう中で一緒にイエスさまのことをお話できるということが大事かと思った」とこう話されていました。そのとおりだと思います。
福音とは自分一人が救いと解放を受け、満足することからさらに隣人や他者と共にあずかっていくことにより益々ゆたかなものになっていくのです。
福音と出会う前のパウロは自分が律法を持っていると人を見下し、迫害していましたが。福音による解放と救いにあずかってからは、福音を共に分かち合う者となったのです。

クリスチャンであっても自分はすばらしい言葉を持っている、助けてあげるといような上から目線で一方通行の押しつけであるなら、相手は引いてしまうでしょう。パウロがここで「福音に共にあずかる者となる」と言っていることと相反することになるでしょう。
神の愛と良き訪れであります「福音に共にあずかりたい」と願う時、祈りと共に相手を尊敬する思いが与えられるでしょう。自分の信仰を持ちながら相手を尊重し、主の愛に依り頼んで祈りとりなす福音の伝達者でありたいと願います。

毎年越冬の夜回りに参加させて戴いていますが。釜が崎キリスト教協友会という団体はカトリックやプロテスタントの教会の神父、牧師、信徒、ミッションスクールの教師や学生などが自由に参加して活動していますけども。夜回りも炊き出しもキリスト教の布教目的ではなく、「神にあってみな尊い命」というところで、一つになって奉仕しています。
そういう中で、「ああ、キリストの人たちか」と気づき、福音に出会う方が起こされれば、それはうれしいことですが。
大震災の被災地で、炊き出しの食事と一緒にキリスト教のトラクトや聖書を差し出された人が、「善意と思ったが、ああ布教のためだったのか」と心閉ざされたという事が実際あったようです。
私の苦しみに共感して、と思っていたが。自分の信仰のためだったのかと、がっかりさせてしまうとしたのなら、パウロの言っていることは逆のことをしていることになりかねません。
「もし自分がその立場であったら、どう思うだろうか。」一人の尊い存在として向き合う中で、声かけをし、心に迎え入れてもらうところからまず始まっていくのですね。
キリストの教会がすばらしい言葉を持っているとか、私たちはそうした人たちに語るべき言葉があるという思いは、夜回りをするなかで打ち砕かれ、私自身のうちに語りかける言葉が乏しいなという無力さ、ただその人の側に寄り添うことしかできない経験をします。
それでも向き合い、関わりをもち続ける中で信頼関係が少しでも築かれていけるとしたならうれしいですね。それは神の恵みの賜物です。
そこにはもはや支援する側とか支援される側というような関係、教える側とか教えられる側というような関係はなく、互いが神に造られた尊厳を持って生き、生かされているという思いが与えられるのです。それもパウロのいう「福音に共にあずかる」ということなのではないかと思うのです。
そういうことから申しあげたいことは、パウロのいう福音は一人で受けるものではなく、共にあずかるものであり、共有していくものなのです。
主イエスは「天の国は実にあなたがたの『ただ中』にある」とおっしゃいましたが。そのとおりだと思います。私たちの間、又私たちの遣わされる人と人の間が、そのような天の国となりますようにと祈ります。

さて、今年はパリでオリンピックが開催されますが。4年に一度世界のスポーツの祭典となっていますオリンピックは、古代ギリシャの町の一つであったオリンピアがその発祥の地であります。
ギリシャのコリントの町では、イトモスというスポーツの祭典が2年に1度行われていたようで、24節以降に、それに関係する競技場、走者、拳闘、賞といった用語が出てきます。競技はレスリング、幅跳び、やり投げ、円盤投げ、競争、拳闘(ボクシング)の6種目がアスリートたちによって競われていたようです。
ここでパウロは競技場のアスリートたちを例にしながら、福音を語る自らの使徒としてのあり方について述べています。
まず、競技場で走る選手たちやボクシングの選手たちは、「賞を得る」ためにどう走るか、どう考え、目標を定めて、そのために体づくりをしたり、さまざまな備えを惜しまず臨みます。
私はスポーツ好きとはいえ、今ももっぱら応援をする側ですが。例えば野球の選手は試合前にストレッチやキャッチボール、打撃、守備を入念に行い、試合の為に備えています。見えないところでもものすごいトレーニングをこなし、日毎の生活においても自己節制をしておられることを知らされます。
パウロは、「やみくもに走ったり・・・空を打つような拳闘をする」ことのないよう、アスリートたちのように目標を立てます。それは、一人でも多くの人がキリストの福音に出会い、共に福音にあずかることができるようになるための目標でした。そのために自己節制し、賞を得る者のようにひたすら福音を伝えるキリスト者として生きようと努めるのです。
そこでパウロが大切にしたのは謙虚さでした。
先ほど触れましたように「福音」は、「私は救われた、恵まれたで終わり」というように自己完結するものではなく、共にあずかることによって一層ゆたかにされ、神がほめたたえられることになってゆくのです。隣人や他者との出会い、関わりを通して、福音が共に活きて働くことをそこで私たちは体験するのです。そこに聖霊が共に働いてくださるのであります。

又、パウロはここで節制することが大事だと言っています。
競技に臨む者はベストの状態で臨めるように心と体のコンディションを保っていく必要があります。いざ競技という時に不調になってしまうわけにはいきません。できる限りベストな状態で臨んでいくことが大事です。そこで競技者は日頃から食生活と体調の管理に気をつかい、心と体を養い、鍛えていくのです。

今日の主題であります「共に福音に与るために」出来る事とは何でしょう。
それは、まず自ら聖書を読み続け、み言葉に日々親しんでいくこと、日々祈り続けることです。
神と私との親密な関係を日々築いていくことは言うまでもないことです。又、共にみ言葉に聞き、共に祈り合うことも大切です。そのために教会が与えられています。自分と違った視点から聞くことで、より聖書の言葉が深みを増してきます。又、共に祈り合うことを通して、聖霊がゆたかにお働きくださることを知ることができるのです。そのような日毎の霊的養いを通して、共に福音あずかる者として建て上げられていくのです。

本日は「共に福音に与るために」と題して、み言葉に聞いてきましたが。
パウロは21節で「わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っている」と述べました。
先に申しましたように、かつてのパウロは書き記された規定どおりを行うことで自分の義を立てようとしました。ところがそれは、神の救いの恵みを締め出すことであったのです。彼は石や皮や紙に書かれた律法に縛られていました。
しかし、この「キリストの律法」、それはキリストが肉のからだをとってわたしたちすべての人間と共におられるお方、インマヌエルの主としてこの世界においでくださり、それはすべての人の苦悩と痛みを知って、十字架にかかり、すべての人の救いと解放の道を切り拓いてくださった、この福音こそが「キリストの律法」なのです。
1章23節「わたしたちは、この十字架につけられているキリストを宣べ伝えています。」
今も、苦悩と痛みが絶えることがないこの世界にあって、神の愛を通して救いと解放の道を示してくださったキリストの福音を共に分かつ者とされ、今週もそれぞれの場へと主と共に遣わされてまいりましょう。お祈りいたしましょう。

「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3章14節)

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