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バベルの塔の危うさ

2023-09-24 14:06:41 | メッセージ
礼拝宣教 創世記11章1~9節 

バベルの塔は古代バビロニア・今のイラクのあたりに実在したようでありますが。考古学による発掘調査と同時代の文書によれば、バベルの塔はジグラトと呼ばれる宗教的建造物だとされ、7階建てで高さが90メートル。1階が幅90メートル、奥行90メートル、2階以降はその容積が下の階よりも小さくなっていたそうです。大阪教会の新会堂が建った2013年時間を同じくしてあべのハルカスが建ち、その高さが250メートル。長いこと日本一でしたが先日さらに高い商業施設のタワーが都心に建ったようですが。なにわの通天閣の高さはだいたい100メートルですから、ほぼバベルの塔の高さに近いです。ただバベルの塔はピラミッドのようなずっしりとした造りなので単にタワーというより、まさに「巨大建造物」であったということです。それだけに当時としては、大変な人の数とものすごい労働力と最新技術を駆使しての建築であったことでしょう。
さて、1節「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とあります。
 この世界中とは、全世界という意味ではなくこの時代のバビロニア(シンアル)一帯に住む人々のことを指しています。私たちも「世界の発祥バビロニア」などと習いましたように、古代文明においては確かに世界の中心的な地であったのでしょう。
まあ「世界中」と表現されるくらいですから、かなりの広さがあって、そこに住む大勢の人々が、「同じ言葉を使って、同じように話していた」ということです。そうなりますと、皆が同じ方向に向かい、力が結集された中でバビロ二アの町はものすごいスピードで発展を遂げていったのかと想像いたします。
それは3節に、「彼らはれんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」とあるとおりですが。そのように文明の発展や進化を遂げる街並みを眺めがら、彼らは、そのれんがとアスファルトを用いて町に先進的な塔を立てようと「話し合った」とあります。

古代の世界において塔を建てるというような大きな建築は、それは宗教的建造物と申しましたように、建立する場合、たいがいは神へお伺いを立て、祈りつつ、神と共同で行なうものです。古代イスラエルのソロモン王の神殿建設はそういった意味でその原型となっていますが。
しかしこの塔の建設の記述には、そういった祭儀が行なわれていたとは何も記されておりません。人々は何ら神に祈り、お尋ねすることもなしに、いわば「神不在」のなか、自分たちの思いだけを先行させ、判断して塔の建築へ舵をきったのであります。
かつてアダムとエバ、又カインもそうでしたが。彼らは神に問うことも、お伺いを立てることもせずに、自分勝手に判断して事をなすという同じ過ちを犯し、神の祝福を損ねてしまいました。バベルの塔のある町の建設も、まさにそのような中で進められていったのであります。

彼らは4節でこう言っています。「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう。」
 彼らが真摯に神に問い、尋ねることなく、事をなそうとしたのは、神への畏れや敬いからではなく、自分たちの名を世に知らしめ、誇示しようと自分たちの野望のために、神不在の中で、自分たちの欲求だけに従い天まで届く塔のある町を立てようと事を運んだのです。それは又、そのように「全地に散らされないために」ということであります。つまり、裏を返せば彼らの思いの根底に、「全地に散らされてしまうという不安があった」ということです。日々築かれてゆく一大文明・文化。力強い国家の一員であるという誇りと安心感。彼らはそれをより確かなものとしたいとの願望が増し、これが散らされてしまっては大変だと言う不安と恐れが神殿の建設という名目で進められていったということです。不安を解消するために強く団結し、一丸となって天に届く塔のある町を建てようと企てるのであります。
力に依存し、依り頼もうとする神不在の古代宗教施設の建立は、かつての宗教カルトの事件を彷彿とされるような不気味さが感じられます。しかし、それは特殊な話でしょうか。バベルの塔を建て、名をあげて自分を何とか守ろうとする姿、現代社会自体がそのようではないでしょうか。そびえるように建つ高層ビル、最高の業績、高額な所得、世にあって確かな地位や名誉。それらすべてを手に入れたとしても、神不在の世界観は満足できないばかりか、不安と虚しさが人を支配するのです。人は神と共にあゆんでこそ、夢や希望を心から楽しむことができ、御心を思うことで、人生にしろ、仕事にしろ、生きがいにしろ、本来の生きる意味と目的を見出し、平安のうちに生きることができるのです。

 さて、先に、「同じ言葉」を使い、同じように話す彼らの結束力と、それによりもたらされる繁栄について述べましたが。それは一見、大変よいことのように思えますが、果たしてどうなのでしょうか? 
この「同じように話す」というのは、画一的思想をもっていたということでしょうが。人間の社会生活において、それは本当によいことばかりなのでしょうか? 
5節以降にこうあります。「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て言われた。『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない』。」
これはですね、画一的思想のもとスローガンを掲げ、それを個人に押し付けようとするとき、異論を持つ少数者を数の論理のもと圧力や怖れで抑えこもうとしたり、排除しようすることが起こっていきます。そのような企てでもって起こってくる悲劇は後を絶ちません。かつて日本は戦時下にあって同じような過ちを犯しました。
 軍国教育と皇国史観が絶対化される中、戦争反対者は非国民扱いされ、迫害、排除されました。よく戦争は軍部の独走と言われますが、それだけではできないことです。国民の心と協力が不可欠です。そこには、人の不安や恐れを結束させて、敵を作ってその敵を打ち負かすことに高揚と満足感を与えるのです。
それは本日の聖書にあるように、「同じ言葉を使い、同じように話す」、つまり1つの教えや思想により、団結力が強められいくとき、人々の心は昂揚し、虚栄の塔となり、神不在の中で人間性が損なわれてゆくのです。
人は不安や恐れを抱くときに、皆と同じであること、他を排除すること、力を誇示するものを持つことによって不安を解消し、安価な安心を手にしようと計りますが、それは幻想です。
フランスの作家:フランク・パヴロフさんの「茶色の朝」という物語を元大阪教会員の武田芳枝さんが以前世の光で解説されたものから引用ご紹介をさせていただきますが。
『主人公の「俺」と友人「シャリルー」は、今日もビストロでコーヒーを飲みながら心地よい時間をゆったりと過ごしています。最近「俺」は猫を、「シャリルー」は犬を安楽死させました。それは茶色のペット以外は禁止という「ペット法」ができたからです。はじめ「俺」は違和感を持ちますが、それも仕方ない、と自分に言い聞かせます。しばらくして、「ペット法」に批判的だった新聞が廃刊になり、系列会社の本が次々に強制撤去され、言葉や単語に「茶色」を付けなければ危険を感じる社会になって行きます。初めに感じた違和感や反発も徐々に薄れて行き、茶色社会に適応しようと「シャルリー」は茶色の犬を、「俺」は茶色の猫を飼い、「茶色に守られた安心、それも悪くない」と考えます。ある朝「茶色いラジオ」が「最近、茶色い動物を購入したからと云って、考え方が変わったことにはならない。過去、茶色以外のペットを飼ったことがあるなら国家反逆罪に問われる」と報じます。そして二人に「茶色の朝」が・・・。』
 武田さんは、「読み終わった時、言いようのない恐怖に襲われるのは何故なのでしょうか?「シャルリー」と「俺」は「わたし自身?」と気づかされるからかも知れません」とコメントなさっている言葉にドキッとしました。あの得体の知れない巨大建造物のように、一つの言葉、一つの民の中に引きずり込まれ、自分を見失っていく社会の不気味さ。
私たちにとって人生を生きるための設計図は「聖書」です。この聖書から如何に聞き、主イエス・キリストがどのような平和を造り出すために、世に来られたのか。又、それをどのように造り出そうとなさったのか。それを知って、心に刻み、生きて行くところに人の平安、平和な社会が実現していくことを信じ、それを希望としていただいているのです。

 さて7節、「主は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉を聞き分けられぬようにしてしまおう」となさいます。さらに8節には、「主は彼らをそこから全地に 散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた」ともあります。
  造られた塔は宗教的な建築物であったといわれていますが偶像に等しかったのです。それは人が1階、2階と高く高く上るごとに、神々に近づくことができるという、あくまでも人が神のようになるための建造物であったのです。人は一つの民、一つの言葉によって統一し、上へ上へと天に届くように一番頂上の天に届けとばかりに上りつめようとします。しかし私たちの神は下へ下へと地に向かい、人 びとのもとへ降りて来てくださるお方なのです。そこには大きな違いがあります。                                                 
神は罪と滅びへと向かう人のところに降りてきてくださるのです。これまで神を見上げ ずに自分を高めようとしてきた人々は、「天から降って来られた主」なる神を見て、ど う思ったことでしょうか?又、そのお言葉を聞いてどう思われたことでしょうか。
私たちは、すべての人に救いをもたらすために、父なる神さまが御子イエス・キリストを世にお遣わしになって救いのみ業をなし遂げられたことを知っています。神の御子が私たちの罪と滅びのどん底にまで降りて来られ、私たちの罪の代価を十字架の血汐によって支払い、贖いとって頂いたことを。
私たちの主は、滅びるほかない罪ある私たちのところにまでお降りくださったのです。私たちがもはや悪しき企てに捕らわれないため、滅びることなく立ち返って本来の人間性を取り戻して生きるためです。感謝のほかありません。
本日のところでもう一つ心に留まりましたことですが。
それは、主なる神は、人々が建てた塔のある町を破壊されたのではなく、人々の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにされてから、全地に人々を散らされたということであります。
私は最初にこのバベルの塔のお話を聞いた時の印象が強烈だったために、この塔を含め町は倒壊してしまったのだと、ずっと思い込んでいたのですが。実はそうではなく、人びとは言葉の混乱と、互いの言葉が聞き分けられなくなった事で建設を中止せざるを得なくなったということです。そうして人々は全地に散らされるのです。それは神の断罪ではなく、神が人間に多様性をもって生きることの意義と幸いを見出すようにと、地に散らされたということです。
 もちろん言葉が通じないということは混乱も起こります。又、同じ言語でも、世代間や立場によって意思疎通の難しさが生じることも多々ありますが。私たちの礼拝にも様々な国の方、様々な言語の方とも共に主を礼拝していますが。そこで大切なのは、違いをもった人がお互いに理解を示し、尊重し合えるかどうかです。互いに良き隣人となれるなら、そのゆたかさを知ることになるでしょう。逆に、違いに対して寛容でなく排他的であるなら、争いや差別の多い人生、殺伐とした社会となるでしょう。

冒頭でシンアルの地の人たちがバベルの塔を築こうとしたのは、天地万物の造り主なる神さまの御心を尋ね求めることなく、ただ、自分たちのおごりと高ぶりのため、又神のようになって散らされる不安を解消するためであった、と申しましたが。今の時代も同様に、創造主なる神を知ろうともせず、その御心を思わないままどんなに立派な高い塔を築いたとしても、分断と混乱が生じ、やがては崩壊に至るのではないでしょうか。
「創造主なる神に立ち返って生きよ。」これが創世記の初めからの聖書が語るメッセージであります。
 主は旧約聖書の時代を貫き、時満ちて、あの新約聖書のペンテコステ・聖霊降臨の日に遂に、あらゆる民族、あらゆる言語、文化の違いをもつ人々をエルサレムに集められ、主の救いの福音、十字架と復活の福音をそれぞれの国の言葉で聞き、主の福音が世界に拡がっていくのです。
使徒言行録3章に記されていますように、「一同(イエスに従ってきた人たち)が聖霊に満たされ、霊が語るままに、ほかの国の言葉で話し出し」、「あらゆる国々からエルサレムに来ていた人びとは自国の言葉で主イエスの救いの福音を聞いて大変驚く」ことになるのです。
 そしてこのペンテコステによってキリストの教会は誕生します。すべての人に神の救いと和解の福音を伝え、証しする尊い使命が、聖霊によって立てられたキリストの教会、私たちに託されていくのです。
散らされていたあらゆる違いをもった人々は、聖霊によって主の愛を受け、心を通わせ、祈り合い、神と人を愛し、仕えていくのです。私たちは神の作品として造られたお互いとその違いの多様性を導き、互いを理解し、祝福し、祈り合うように招かれています。

今週もまたここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
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