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慈愛によって生きる

2023-09-10 13:35:38 | メッセージ
礼拝宣教 創世記8章1-22 

今日でノアの箱舟のエピソードも3回目となりますが。
創世記6章の記事では「主は地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ」、地を一掃なさる決断なさいます。
そうして起こった洪水は7章にありますように、「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれ、洪水が地上に起こ」り、40日40夜天の窓が開き怒濤の雨が降り続け、洪水となり、地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとく大水に飲み尽くされて息絶えてしまうのであります。
水は150日もの間、地上で勢いを失うことなく、「ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残される」のです。
ノアは、40日の洪水の間、さらに水が地上で勢いを失わなかった150日の間、どのような思いで箱舟の中にいたのでありましょう。
豪雨と洪水、勢いが絶えない大海原の中で、不安や恐れ、あるいは箱舟の中で生き物と共に過ごす苦労や疲労も当然あったのだろうと想像いたしますが。

ここからが本日の8章でありますが。
その冒頭で、「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」とあります。
この地の上に神が風を吹かせられた「風」(ルーアハ)は、単なる風ではなく、天地創造の時に水の面を動いていた「霊」と同じ存在です。
それは単なる自然現象によるものではなく、創造の主、すべてを司っておられる神のご意志による御業であります。
そのようにして、箱舟はアララト山の上に止まり、山々の頂が見えたというのです。この水がどんなに高い水位まで上っていったのかということが伝わってきますが。

箱舟の中にいたノアやその家族の人たちは、外の状況がどのようになっているのか全くわかりませんでしたから、地上の様子を確認するためにノアは4回にわたって烏や鳩を箱舟から放つのです。
最初、烏を、次に鳩を放ちますが何の収穫もなく箱舟に戻ってきました。7日において3回目に鳩を放ったら、その鳩がくちばしにオリーブの葉をくわえて帰って来たのを見て、水が地上からひいたことをノアは確認します。オリーブの葉は水の中でも芽を出すと言われます。柔らかい新芽の葉です。それはこの地上で、既に神の新しい創造のみ業が始まっているあかしでした。
その「オリーブの葉をくわえた鳩」は、いのちの希望を表わすしるしでした。
窓から放たれた鳩はノアの祈りをもって送り出されますが、帰ってきた鳩はその祈りに対する答えっであることを物語っていました。
鳩といえば、ヒロシマとナガサキの原爆投下の日をおぼえて行なわれる平和記念式典の場においても大空に放たれます。その鳩もまた、平和への祈りをもって放たれるのです。
そうして放たれた鳩は、大地が乾き、再び芽吹いてきた生命のあかしとして、くちばしにオリーブの葉をくわえ戻ってきます。それはノアの祈りと忍耐が決して無駄ではなかったことを表します。

ノアはこの壮絶な大洪水が始まりから完全に地がすっかり乾くまでの1年もの間、どういう思いであったでしょうか。
何しろ、完全に箱舟の中に閉じ込められていたのです。そのうえ猛獣までも一緒です。ノアは自らのこと以外に、家族や動物たちが起こすあらゆるトラブルにも見舞われ、それらを解決しなければならなかったでしょう。
しかし、何よりも大きな不安は、この災いがいつ迄続くのか、それが彼には知らされていなかったことです。
これはコロナ危機が2年半以上も続くなかで、一体この危機はいつまで続き、いつ解決するのかわからないといった私たちの苦悩や不安、焦りとも重なるように思います。
ノアはそのような中で、なおも忍耐をもって苦難を忍び希望する力を、一体どこから得、何を頼りにしていたのでしょうか。
それは、6章18節の「わたしはあなたと契約を立てる」という神の御言葉の約束にありました。その希望の約束を信じ、受け取ったノアは、どのような目に見える厳しい現実をも乗り越えていく力を与えられていたのです。
それは、ヘブライ11章1節に記されている「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」主への信仰です。

契約というのはご存じのとおり大変な重みを持っています。ひとたび契約が交わされたならば、互いが何かしらの利益を受け取ることに義務を負い、責任が生じます。時に契約は履行されるための強い効力をもっています。
神はノアに「あなたと契約を立てる」と仰せになられましたが、ノアははその契約がどのようなもであるかは伝えられていませんでした。それにもにも拘らず、「箱舟に入り、生き延びるようにしなさい」との神のお言葉に聞き従いました。
本日の8章の冒頭で、「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」とあります。
神はそのノアを御心に留めてくださるのであります。
「御心に留める」という言葉には、深い慈しみをもって顧みられたということです。ノアは想像を絶するような様々なかで、この深い慈しみをもって臨まれる神に望みもち続けたのです。

さて、ノアは更に7日待って、再び鳩を放ちます。すると、鳩はもう帰ってこなかった、とあります。ノアとその家族はこの日が来る事をどれほど待ち望んでいたことでしょう。

神はノアに、「家族とともに箱舟から出なさい」と仰せになります。さらに「すべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい」と言われます。神はすべての命を祝福なさるのです。それは、再びこの地上が命にあふれる世界となることでした。

そこでノアが真っ先にしたこと、それは祭壇を築き、献げものを捧げ、救いの主であられる神を礼拝することでした。
主なる神は、そのノアの捧げもののかおりをかいで、こう御心に言われます。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」
これは、主であられる神さまがご自身のお心のうちに、決定的な決断をなさったということであります
人の罪の性質すべてをご存じでありながら、人間という存在を引き受けていかれる大決断を神はなさるのです。人間は、昔も今も何ら変わりません。どんなに高度な文明や科学技術が進んでも、自分が賢くなったと思っても、富み栄え偉くなったように思ったとしても、人間そのものは大して変わっていない。
神が、人は幼いときから悪いのだとおっしゃったように、この洪水物語の前も後も、そして今日の世界も、先にも触れましたように、罪に満ちた世界の実情は昔も今も変わっていません。そうでないなら、なぜ世界中の人のみならず、動物も、命あるものが苦しみと悲しみ、破滅的な痛みの中でもがいているでしょうか。人間の側はいつの時代も何も変わらないのです。

それにも拘らず、創造主なる神さまは、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」と決意なさるのです。それは変わりようのない人間に対して、神さまご自身が変わられた、ということであります。一体そんなことあるでしょうか。全能なるお方ご自身が変わろうとなさるとは・・・
それは唯、ご自分が創造された人間やあるゆる生物の命が滅びていくことに断腸の思いをもって痛まれるそのご慈愛のゆえです。
人の言葉に言い表せないようなそのご慈愛のゆえに自ら変わられ、洪水後なおも反抗し続けるような人間、み心に反し破壊的な世界に向かっていくような人間を受け入れ、関わり続けようとなさることを御心に決められたのです。
人間の愛は条件つきであります。これだけ相手にしたのだから、尽くしたのだから、その見返りはあると期待し、求めるものです。しかし神の愛は条件つきの愛ではありません。神の愛をアガペーと申しますが。神は人を妬むほどに愛し、憐れみといつくしみに富んでおられると、聖書に幾度も語られていますように、人がどのような者であるかご存じでありながら、ご自身心を痛めつつ、なおも人の立ち返るのを忍耐のうちに待っておられるのです。
この慈愛の神のお姿は、ついにイエス・キリストにおいて、すべての人に現わされます。慈愛の神が人を愛するがゆえにご自身痛みと想像を絶する犠牲を負って下さった。この神の慈愛の究極のお姿がキリストご自身なのです。

フィリピ2章6節以降にこのように記されています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でした。」
神の御子であるキリストが神の慈愛そのままに人間の姿となってこの地上に来られ、人間の咎と罪を自ら背負われ、十字架に磔になって死なれ、すべての人の罪をあがなわれたのです。
今私どもはこの慈愛の神の新しい契約によって、すなわち神の御子イエス・キリストの贖いの血汐によって罪がゆるされ、復活の命の希望、神の民、神の子として生きる道が、唯、主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられているのです。
キリスト者は、この神の愛に出会い、その愛の中で生きることを決意した人、罪に死に、新しいキリストの命に生きる信仰とキリストに従い行く意志を与えられた人、主のご慈愛によって生きる人です。
この後、主の晩餐が持たれますが。私たちを愛するがゆえに人の姿となられ、十字架で肉を裂き、血を流された主イエスの愛と神の深いいつくしみ。これこそ私たちを確かに生かす命の源であることを今日も確認いたしましょう。新しい週が始まりました。ノアが箱舟から出て祭壇を築きましたように、私どもそれぞれの生活の場で主を拝し、仕えてまいりましょう。
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