青山高校のバレーボール部のチームメイト・Tくんが、九州に転勤となりました。
上野の博物館から、九州国立博物館の学芸部長に就任したのです。
高校入学当時から「考古学をやりたい」と話していたTくんは、現役で東大に進んで、念願の考古学を究める道に進みました。
青山高校の文化祭「外苑祭」で、私がジャズ・ライブの部屋を拠点にしていると、その隣に、Tくんは「朝鮮半島の文化」をテーマにした部屋を設けるという具合。
「今年の展示内容には、いささかの自信があるんだけど、なぜか来場者が少ないんだよ」とボヤくTくんに、「そうか。それは残念だね。」と表面上は慰めつつも、内心では「Tくん、それで客を集めようとしても、無理というものだよ」などと呟く私でした。
(;^_^A
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Tくんとは、中学二年生の時からの付き合いです。
中学二年生の秋、目黒区のバレーボール新人戦準決勝で、私が目黒六中、Tくんが東山中学の選手として対戦。
六中が東山に惜敗して、私たちは決勝進出を逃しました。
私たちは、この敗戦が悔しくて悔しくて、部員全員が頭を丸坊主にして、猛練習。
次の大会では、Tくんをエース・ストライカーとする東山中学に、フルセットの末に勝ったのでした。
ちなみに、これまでの人生において、私が坊主頭になったのは、この東山中学に負けた時が最初で最後です。
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1971年(昭和46年)、青山高校に入学すると、そのTくんとバレーボール部で一緒になりました。
高校入学時において、既に学究派であったTくん。
それに対して、「勉強なんて、落第しなければいいんだよ」という、学窮派の私。
全くタイプの異なる2人が、40年以上にわたって友情を育んでくることができたのは、バレーボールという団体スポーツのおかげというしかありません。
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Tくんの勤める博多に遊びに行こうと、青山高校の仲間たちと計画中です。
上野の博物館から、九州国立博物館の学芸部長に就任したのです。
高校入学当時から「考古学をやりたい」と話していたTくんは、現役で東大に進んで、念願の考古学を究める道に進みました。
青山高校の文化祭「外苑祭」で、私がジャズ・ライブの部屋を拠点にしていると、その隣に、Tくんは「朝鮮半島の文化」をテーマにした部屋を設けるという具合。
「今年の展示内容には、いささかの自信があるんだけど、なぜか来場者が少ないんだよ」とボヤくTくんに、「そうか。それは残念だね。」と表面上は慰めつつも、内心では「Tくん、それで客を集めようとしても、無理というものだよ」などと呟く私でした。
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Tくんとは、中学二年生の時からの付き合いです。
中学二年生の秋、目黒区のバレーボール新人戦準決勝で、私が目黒六中、Tくんが東山中学の選手として対戦。
六中が東山に惜敗して、私たちは決勝進出を逃しました。
私たちは、この敗戦が悔しくて悔しくて、部員全員が頭を丸坊主にして、猛練習。
次の大会では、Tくんをエース・ストライカーとする東山中学に、フルセットの末に勝ったのでした。
ちなみに、これまでの人生において、私が坊主頭になったのは、この東山中学に負けた時が最初で最後です。
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1971年(昭和46年)、青山高校に入学すると、そのTくんとバレーボール部で一緒になりました。
高校入学時において、既に学究派であったTくん。
それに対して、「勉強なんて、落第しなければいいんだよ」という、学窮派の私。
全くタイプの異なる2人が、40年以上にわたって友情を育んでくることができたのは、バレーボールという団体スポーツのおかげというしかありません。
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Tくんの勤める博多に遊びに行こうと、青山高校の仲間たちと計画中です。
大宰府駅からだと参道を歩いて大宰府天満宮にはいり、境内を通り抜けた緑ゆたかなところにあり、私はとても素敵な場所にある博物館だと思います。
が、賑わっていないのは駐車場不足のせいだと分析します。
九州の人は車移動が多く、先日も駐車場に入れずにあきらめて帰っていく方が沢山いました。
専用駐車場をふやしてください・・・とお伝えください(笑)
Tくん自身、博士課程を終える二十歳代後半まで、多額の奨学金を支給され、通学定期を使っていました。
就職して何年も経つ私たち同期生たちから「三十歳を目前にして、通学定期はないだろう」と、当時の飲み会でイジられ、Tくんは苦笑いしていました。
志望になり、今は経営学者(エセですが)。
残念なような良かったような・・・。
こういう本当の研究者と話すと、楽しいです。
九州へはまた行くので、寄ってみたいと思い
ます。