昨日は沖縄戦で命を落とした早大野球部出身の近藤清さんを話題にしました。
今日は、盟友 明治大学出身で戦火に散った名投手 嶋清一さんを取り上げたいと思います。
嶋投手は、1937年(昭和12年) 和歌山県 海草中学(現在の向陽高校)のエースとして出場した甲子園で5試合連続完封で優勝、加えて、その準決勝と決勝は2試合連続ノーヒットノーランという、前人未到 不滅の偉業を成し遂げた大投手です。
YouTubeに、甲子園の試合風景が残っています。
嶋投手は、1940年(昭和15年)に明大予科に入学。
その秋に神宮デビューを果たします。
写真の後列右側が嶋さん。
しかし、1943年(昭和18年)に繰上卒業となり学徒出陣し、海軍に入りました。
そして、1945年(昭和20年)3月29日、ベトナム沖で輸送船団警護にあたる海防艦に電探係として乗っていたところ、敵潜水艦の魚雷攻撃により沈没し、嶋投手は戦死。
まだ24歳という若さでした。
なお、嶋投手は、あの野球漫画「巨人の星」にも登場します。
主人公 星飛雄馬の父 一徹が戦地で負傷した際、同じ戦場に居合わせた元甲子園球児が嶋さんという設定でした。
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今年は戦後70年という節目の年なので、戦争体験者の証言が新聞やテレビで取り上げられる機会が増えています。
しかし、証言されるご存命の方々は終戦時に せいぜい二十歳前後。
どうしても、戦争での被害者としての側面に偏った証言になってしまいます。
また、先人や戦死者に敬意を表するあまり、ややもすると美談となりがちです。
一方、戦争で指導的立場にあった人々、あるいは戦地で実際に軍隊を動かしていた人々は終戦当時に概ね40歳以上と考えられますので、さすがにご存命ではないでしょう。
ですから、先の戦争における加害者としての側面については、時すでに遅し。
なかなか証言を得ることが難しいと思われます。
これから目にする数々の終戦70周年記念企画には、そのことを十分に踏まえて、時には頭の中で修正を加えながら、接するようにしたいと思います。
今日は、盟友 明治大学出身で戦火に散った名投手 嶋清一さんを取り上げたいと思います。
嶋投手は、1937年(昭和12年) 和歌山県 海草中学(現在の向陽高校)のエースとして出場した甲子園で5試合連続完封で優勝、加えて、その準決勝と決勝は2試合連続ノーヒットノーランという、前人未到 不滅の偉業を成し遂げた大投手です。
甲子園「名投手」「名選手」百選
YouTubeに、甲子園の試合風景が残っています。
"嶋 清一" を YouTube で見る
嶋投手は、1940年(昭和15年)に明大予科に入学。
その秋に神宮デビューを果たします。
写真の後列右側が嶋さん。
しかし、1943年(昭和18年)に繰上卒業となり学徒出陣し、海軍に入りました。
そして、1945年(昭和20年)3月29日、ベトナム沖で輸送船団警護にあたる海防艦に電探係として乗っていたところ、敵潜水艦の魚雷攻撃により沈没し、嶋投手は戦死。
まだ24歳という若さでした。
なお、嶋投手は、あの野球漫画「巨人の星」にも登場します。
主人公 星飛雄馬の父 一徹が戦地で負傷した際、同じ戦場に居合わせた元甲子園球児が嶋さんという設定でした。
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今年は戦後70年という節目の年なので、戦争体験者の証言が新聞やテレビで取り上げられる機会が増えています。
しかし、証言されるご存命の方々は終戦時に せいぜい二十歳前後。
どうしても、戦争での被害者としての側面に偏った証言になってしまいます。
また、先人や戦死者に敬意を表するあまり、ややもすると美談となりがちです。
一方、戦争で指導的立場にあった人々、あるいは戦地で実際に軍隊を動かしていた人々は終戦当時に概ね40歳以上と考えられますので、さすがにご存命ではないでしょう。
ですから、先の戦争における加害者としての側面については、時すでに遅し。
なかなか証言を得ることが難しいと思われます。
これから目にする数々の終戦70周年記念企画には、そのことを十分に踏まえて、時には頭の中で修正を加えながら、接するようにしたいと思います。
それから、明治の帽子、ユニフォームの胸のマーク、現在と変わらないんですね。伝統の重さ、ひしひしと。