東富坂の北側の坂下からはじめる(周辺地図)。春日通りはこの坂のあたりでかなり広くなっており、上り車線と下り車線が中央分離帯で分離している。一枚目の写真は坂下から撮ったもので、上り側である。
白山通りに沿って横断歩道を渡る途中で、下り側を撮ったのが二枚目の写真である。三枚目は歩道を渡って南側の坂下から坂上を、四枚目は歩道を上りその途中から坂上を撮ったものである。 中程度より緩やかな勾配でまっすぐに南東へ上っているが、坂上側で左にちょっと曲がってから東へと延びている。
一枚目の写真は中腹から坂下を、二枚目は前回の旧東富坂上から坂上側を撮ったものである。三枚目はちょっと坂上側に進んでふり返って撮ったもので、中央左の道へと左折すれば、旧東富坂の坂上である。四枚目はそのあたりから坂上側を撮ったもので、ほとんど平坦である。
北側坂下の歩道わきに坂の標識が立っていて、次の説明がある。
「東富坂(真砂坂)
本来の「東富坂」は、この坂の南を通る地下鉄丸ノ内線に沿った狭い急坂である。現在は、「旧東富坂」と呼んでいる。もともとの坂は江戸の頃、木が生い繁り、鳶がたくさん集まってくることから「鳶坂」といい、いつの頃からか「富坂」と呼ぶようになったという。
現在の東富坂は、本郷3丁目から伝通院まで、路面電車(市電)を通すにあたり、旧東富坂上から春日町交差点まで新しく開いたゆるやかな坂道である。この市電は、1908年(明治41)4月11日に開通した。現在、文京区役所をはさんで反対側にある坂を、「富坂(西富坂)」と呼び区別している。
文京区教育委員会 平成8年3月」
一枚目の写真は東富坂の北側の坂下からちょっと上ってから坂上側を撮ったものである。二枚目はそのあたりから坂下側を撮ったもので、坂下の白山通りの向こうに千川通りをはさんで西富坂(富坂)の上りが見える。これからわかるように、白山通りがもっとも低地で、千川通りに向けてごく緩やかに上っている。
三枚目は中腹から坂上を、四枚目はそのあたりから坂下を撮ったものである。
実測東京地図(明治11年)を見ると、この坂はまだできていないが、明治地図(明治40年)にある。標識の説明のように路面電車を通すためにつくられた。
これらの地図を見ると、旧東富坂の坂下はクランク状に曲がってから旧西富坂の方へ延びていた。旧東富坂は残っているが、旧西富坂は現存していない。別名の真砂坂は、坂北側の旧地名が本郷真砂町であったので、それにちなむと思われる。
一枚目の写真は、坂上から東側を撮ったもので、二枚目は、そこからちょっと進んでふり返って坂下側を撮ったものである。二枚目の中央の交差点を右折すると、鐙坂方面である。三枚目はさらに坂上から東へ進んで撮ったもので、ここの交差点を左折していくと、炭団坂方面である。
四枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、炭団坂と鐙坂の先が接続したあたりは旧東富坂であるが、この東富坂に吸収され、一、二枚目のように鐙坂が接続した付近で旧東富坂からちょっと離れるように曲がってから下っている。
東富坂上を東へ進み、本妙寺坂上からの道との交差点の東南角近くに一枚目の写真のように理髪店がある。二枚目の説明パネルが店の前に貼り付けてあるが、それによれば、ここにあった喜之床という理髪店の二階に石川啄木一家が明治42年(1909)6月から二年余り住んだ。その後、小石川に移ったが、そこが啄木の終焉の地となった。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)