東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

金比羅坂

2012年12月08日 | 坂道

金刀比羅神社 金比羅坂下 金比羅坂下 金比羅坂中腹 前回の壱岐坂の西側坂下の途中を坂上から来て左折し南へとちょっと歩くと、左手に金刀比羅神社が見えてくる。一枚目の写真のように、神社前の石柱に金刀比羅宮東京分社と刻まれている。

神社から引き返して、すぐの四差路を右折すると、小路の向こうに坂が見える。ここが金比羅坂である(現代地図)。二枚目の写真は坂下から坂上側を、三枚目はそのちょっと上から坂上側を撮ったもので、中程度の勾配で東へ上っている。四枚目はさらに上ってから坂下を撮ったもので、かなり狭い道で、向こうに見えるのは白山通りである。

本郷一丁目5番と12番の間にある坂で、上側で大きく北側へ曲がってから本郷台地へと上っている。

金比羅坂中腹 金比羅坂中腹 金比羅坂中腹 金比羅坂中腹 一枚目の写真は坂中腹のT字路の手前から撮ったもので、ここを左折していくと、新壱岐坂の中腹である。二枚目はそのちょっと上から坂上側を、三枚目はそのあたりから坂下側を撮ったものである。T字路の上と下ではちょっと違う感じであるが、同じ金比羅坂であろう。四枚目は三枚目の上側の大きくカーブしたところから坂上を撮ったものである。

この坂にはいつもの標識が立っていない。

この坂は、山野と岡崎に紹介されているが、横関、石川、「東京23区の坂道」には紹介されていない。坂名は坂わきの金刀比羅神社に由来することはわかるが、いつごろできたのかは、岡崎などを見てもちょっとわからない。

金比羅坂上 金比羅坂上 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 高松松平家の下屋敷跡 一枚目の写真は、中腹の大きなカーブを曲がって坂上に上ってから坂下側を、二枚目は坂上を撮ったものである。この坂上側をもこの坂に含めるのか不明であるが、曲がってからよい上りとなっているので紹介する。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)には、イキトノサカ(壱岐殿坂)の坂下左側(南)に青山大膳亮の屋敷があるが、その南となりに松平讃岐守の中屋敷がある。近江屋板(嘉永三年(1850))も同様であるが、御江戸大絵図(天保十四年(1843))では青山屋敷のとなりは対馬宗家の屋敷になっている。

四枚目は金刀比羅神社の境内に立っていた高松松平家の下屋敷跡の標識である。これから、この神社は高松松平家の屋敷内にあったのかと想像されるが、確かでない。

実測東京地図(明治11年)には、壱岐坂の下側(南)から神田川までの一帯に崖地のしるしなどがあるだけで、道は一本も示されていない。明治地図(明治40年)を見ると、この坂と想われる道が示されているが、神社がこの道のわきでなく、ちょっと南へ離れた神田川の近くにある。東京五千ノ一(明治20年)でも神田川近くにこの神社があるが、この坂道は示されていない。

戦前の昭和地図(昭和16年)を見ると、神社は現在の位置にあり、坂道も現在とほぼ同じである。

以上から、この坂道は、明治につくられたが、そのとき神社はこの傍にはなく、無名坂で、その後、神社が移ってきてから、この坂名になったのかもしれない。

坂上側のカーブから上も明治のころと違っているようであるが、これがアクセントになってなかなかよい坂になっている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)

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