東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

油坂(揚場坂)

2012年12月29日 | 坂道

油坂下 油坂下 油坂下 油坂下 前回の富士見坂下の外堀通りの歩道に戻り、ここを左折し東に歩き、順天堂大学の前を通り、次を左折すると、油坂の坂下である(街角地図参照)。

一、二枚目は坂下の外堀通りの歩道から坂上を、三枚目はその先から坂上を撮ったものである。四枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、外堀通りが見える。

ここも外堀通りからほぼまっすぐに北へ上る坂で、となりの富士見坂と同様にかなり緩やかで距離も短い。三枚目の写真からわかるように坂下側でわずかに左に曲がっている。

本郷二丁目1番と2番の間で、坂の両側に順天堂大の建物があり、坂下の真上に連絡通路が見える。

油坂中腹 油坂中腹 油坂中腹 油坂中腹 一枚目の写真は、坂下からちょっと上って中腹から坂上を、二枚目はそのあたりから坂下を撮ったものである。三枚目は、さらにちょっと上ってから坂上を、四枚目は、そのちょっと先から坂下を撮ったもので、坂上側に坂の標識が立っている。

標識には次の説明がある。

「油坂(揚場[あげば]坂)  (本郷2-1と2-2)
 この坂は、油坂または揚場坂と呼ばれている。坂上の左側は本郷給水所公苑である。『油坂、元町1丁目と東竹町辺の間を南に下る坂あり、油坂と呼ぶ』(新撰東京名所図会)とあるが、その名の起りは不明である。
 この坂は別名『揚場坂』といわれているが、その意味は、神田川の堀端に舟をつけて、荷物の揚げおろしをするため、町内地主方が、お上に願って場所を借りた荷あげ場であった。この荷揚場所に通ずる坂位置を揚場坂道と呼んだのがのちに『揚場坂』と言われるようになった。
 『揚場坂と申し、里俗に近辺には無御座候得共、町内、持揚場御茶の水河岸内に有之候に付、右揚場坂道を他所の者、揚場坂と唱候儀も有之趣に御座候』(御府内備考より)
       文京区教育委員会  昭和62年3月」

明治実測地図(明治11年)を見ると、元町一丁目と東竹町の間に道があるが、ここがこの坂である。西から東へと、建部坂富士見坂、油坂が平行に並んでいるが、同地図を見ると、これらの坂下近くに本郷台地の縁が東西に延びており、この当時にはこれらの坂下側はいまよりも急であったのかもしれない。

油坂上 油坂上 油坂上 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 一枚目の写真は、坂上側近くの標識の所から坂上を、二枚目はその上側から坂上を撮ったもので、このあたりではさらに緩やかになっている。三枚目は坂上の交差点近くから坂下を撮ったものである。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、上から建部坂、富士見坂、油坂がある。近江屋板(嘉永三年(1850))も同じで、これにも坂名も坂マークもない。

油坂というユニークな坂名であるが、その由来は不明という(石川、岡崎)。別名の揚場坂は、御府内備考を引用した標識の説明のように、町方が管理する荷揚場がお茶の水の河岸にあり、これに通ずる坂であったことに由来するようである。

坂下から外堀通りを通ってお茶の水駅へ。

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

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