東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

建部坂

2012年12月26日 | 坂道

街角地図 元町公園 建部坂下 建部坂下 前回のお茶の水坂の坂上近くを左折すると、建部(たけべ)坂の坂下である。一枚目の写真の街角地図のように、元町公園の東わきの道で、本郷一丁目1番と二丁目3番との間を北へ上る坂である。二枚目はお茶の水坂に面した元町公園の入口付近である。

三枚目は坂下から坂上を、四枚目はそのちょっと上から坂上を撮ったもので、中程度よりも緩やかな勾配でまっすぐに上っている。左手前方が元町公園である。

坂上近くの歩道端(西側)に立つ標識に次の説明がある。

「建部坂(初音坂)
       文京区本郷一丁目と二丁目の間
 『新撰東京江戸名所図会』に「富士見坂の北(注・西)にある坂を建部坂といふ。幕士建部氏の邸地あり因て此名に呼び做せり」とある。嘉永3年(1850)の『江戸切絵図』で近江屋板を見ると、建部坂の上り口西側一帯(現在の元町公園)に建部氏の屋敷が見える。直参、千四百石で、八百八十坪(約2900m2)であった。
 『御府内備考』に次のような記事がある。建部六右衛門様御屋敷は、河岸通りまであり、河岸の方はがけになっている。がけ上は庭で土地が高く、見晴らしが良い。がけ一帯にやぶが茂り、年々鶯の初音早く、年によっては十二月の内でも鳴くので、自然と初音[はつね]の森といわれるようになった。明和9年(1772)丸山菊坂より出火の節、やぶが焼けてしまったが、今でも初音の森といっている。初音の森の近くで、一名初音坂ともいわれた。
           文京区教育委員会  平成14年3月」

建部坂下 建部坂下 建部坂中腹 建部坂中腹 一枚目の写真は、坂下からちょっと上ったところから坂上を撮ったもので、古びた石塀の上は元町公園である。二枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、坂下の先に外堀通りが見えるが、お茶の水坂の坂上あたりである。その向こう下側に中央線の電車が見え、その上側が皀角坂のあたりであろうか。

三枚目は、さらに上り中腹付近から坂上を、四枚目は、そのあたりから坂下を撮ったもので、通りの向こうにこんどは総武線の電車が見える。

この坂は、なんということもない平凡な小坂であるが、歴史は古く、その坂名には異説がある。

建部坂は、標識にもあるように、坂下の西にあった建部邸に由来する。下四枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、坂下西に建部六左エ門の屋敷がある。近江屋板(嘉永三年(1850))では、建部六右エ門となっていて、その前の道に、△タテブサカ、とある。

横関は、建部氏の子孫にあたる人から、建部六左エ門はまちがい、という注意を受けたという。 横関は、建部坂の別名を忠弥坂とし、この坂の坂下からの写真をのせている。この坂をそのまま北へ直進し、最初の四差路を左折して進むと坂上にいたるが、この坂が忠弥坂とされており、前回の記事で紹介した。

『御府内備考』の本郷之一の総説に丸橋忠弥宅蹟の説明がある。

「丸橋忠弥宅蹟 丸橋忠弥宅跡は春木町のうち今の近藤氏の表門の向ふなりと、或は昌清寺、等正寺の辺ともいへり、古く大岡源右衛門といへる人おれり、その屋敷はことの外広くして三千五百坪ありしと、この人彼の門人なりしかば、その屋敷の内に忠弥をすませたり、此人その頃は御中間頭を勤む、かの忠弥を置し科により、慶安四年八月十四五日の頃佐渡の国へ遠流に処せられしか、後七年をへて明暦三年罪ゆるされて江戸に還り、又御家人にめし出され本郷の内にて屋敷を賜へり、今の御代官大岡源右衛門が先祖なり、【改撰江戸志】」

御府内備考によると、丸橋忠弥宅跡には諸説あるが、大岡源右衛門という人の屋敷が三千五百坪と広く、この人が忠弥の門人で、その屋敷の内に忠弥を住まわせた。

丸橋忠弥が関与した慶安の変は慶安四年(1651)に起きている(前回の記事)が、正保元年(1644)の江戸地図が横関にのっている。これには、当時まだあった吉祥寺の東となりに大岡源右衛門の屋敷が二つあり、横関は、このうち忠弥が住んだのは南の方の屋敷(いまの元町公園のある所)で、北が大岡源右衛門の住んだ屋敷と推測している。忠弥の住んだ屋敷は南側が崖で要害となっていて、ことある場合の防塞となるようなところだったからそう推測したようである。南の屋敷の東わきがこの坂で、忠弥坂は、建部坂以前に、近所のごく少数の人びとからひそかに呼ばれていた坂名であったとしている。

横関は、現在忠弥坂とされている坂をまったく否定しているが、その理由として、忠弥が南側の屋敷に住んだこと、道のできた時代(おそらく明治)を考えている。

建部坂上 建部坂上 建部坂上 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 一枚目の写真は坂上近くからその先を、二枚目はさらに坂上側から坂下を、三枚目はそのちょっと手前から坂上側を撮ったもので、坂の標識と上一枚目の街角地図が写っている。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図で、この坂のある道筋を北へまっすぐにたどると、壱岐坂の坂上、東富坂の坂上へと続き、現在の道とほぼ一致する。

この坂の別名の初音坂についても横関は別の説を唱えている。

『御府内備考』の本郷之一の総説に初音藪について次の説明がある。

「初音藪 初音藪はその所を詳にせず、或云、櫻馬場の西の方なりと、元禄の頃 御成の時此ほとりを通御ありしに、おりしも藪の内にて鶯[うぐいす]の初音を聞せられ、此所を初音の藪と名付べしと台名ありしよりの名なりと、【改撰江戸志】今土人は御茶の水建部六右衛門屋敷の崖付の所ならんと云、【本郷元町書上】【江戸図説】に、初音の森は御茶の水より元町辺時鳥[ほととぎす]の名ところとす、府内にては此辺を尤も一声早しと、是は前説の鶯の事を誤り伝へしものにや、別に初音の森といへるを だ聞ず、」

横関は、上記の記述(今土人は御茶の水建部六右衛門屋敷の崖付の所ならんと云)から初音坂が建部坂の別名になったとしている。天保ころの写本で、江戸の大名や旗本の屋敷を詳しく書いた『江戸大名町案内』(仮題)という本をよく調べたら、タケベ坂の一名を初音坂と書いたのは誤りであることを知ったとし、もっと正しい資料が出てくるまで、建部坂一名初音坂を取り消すとしている。

上記の写本を嘉永二年の江戸切絵図でたどると、「行当り初音坂有」とある所は炭団坂であるという。横関は、これから、炭団坂の別名を初音坂としている。ただし、このことから直ちに建部坂の別名が初音坂であることを否定はできないように思われる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする