東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

菊坂下通り~炭団坂

2012年11月21日 | 坂道

菊坂下通り 菊坂下通り 周辺地図 菊坂下通り 前回の本妙寺坂を下り、坂下近くで左折すると、菊坂下通りである。一枚目の写真は、本妙寺坂下から菊坂下通りを撮ったもので、ここから細い道が西へ緩やかに下っている。二枚目は、ちょっと下ってからふり返って撮ったもので、坂上が本妙寺坂下である。

三枚目の街角地図(上がほぼ南)を見るとわかるように、現在の菊坂に沿ってずっと北西へと、胸突坂下のあたりまで延びている。

狭い通りをしばらく歩くと、右手に階段が見えてくる。四枚目のように、階段の上が菊坂で、この通りが菊坂の通りよりも一段低いことがわかる。 階段をちょっと上ると、右手に下一枚目の宮沢賢治旧居跡の標識が立っている。

宮沢賢治旧居跡標識 菊坂下通り 菊坂下通り 菊坂下通り 一枚目のように、宮沢賢治は大正10年(1921)1月から8月までこの近くの稲垣家の二階に間借りしていた。新潮日本文学アルバムにその家の写真が載っているが、二階建てのひょろりとした日本家屋である。

二枚目の写真は階段下から通りを撮ったもので、このちょっと先を左折すると、炭団坂である。

さらに進むと、三枚目のように、先ほどと同じような階段が右手にある。階段の上は菊坂の通りで、かなり坂下に近い。

四枚目は、その近くに貼り付けてあった旧菊坂町の説明板である。これにあるように、その近くの小路に入ると、下一枚目の写真のように一葉旧居跡の井戸がある。

樋口一葉旧宅跡 炭団坂下 炭団坂下 炭団坂下 先ほどの宮沢賢治の旧居跡の近くの小路に入り、左にちょっと曲がり進むと、二枚目の写真のように炭団坂が見えてくる。三、四枚目はさらに近づいて坂下から撮ったものである。本郷四丁目32番と35番との間にある。

菊坂下通りの方から入り込んだ谷から台地へ上る階段坂である。坂下から見て右側は崖で、石垣になっているが、これから崖にできた坂であることがわかる。南の坂上は本郷台地で、坂上をそのまま直進すると、春日通りの真砂坂上にいたる。

階段の上側に文京区教育委員会の坂の標識が立っていて、次の説明がある。

「炭団坂(たどんざか)
 本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。
 台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。
 この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。
    文京区教育委員会 平成6年3月」

炭団坂下 炭団坂中腹 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) この階段坂には何箇所かの踊り場があるが、一枚目の写真は下側の踊り場から坂上を撮ったものである。2枚目は中腹から坂下を撮り、坂下の先の狭い小路が見える。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、現在菊坂とされる通りと、菊坂下通りが仲よく並んでいるのがわかるが、下通りを本妙寺坂の方から進んで一本目を左折した道筋がこの坂と思われる。四枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))にも、本妙寺坂の方から進んで鋭角に曲がる道筋がこの坂であろう。

近江屋板(嘉永三年(1850))にも尾張屋板と同様の道筋があるが、坂マークも坂名も記されていない。

炭団坂中腹 炭団坂中腹 炭団坂中腹 一枚目の写真は、中腹から坂上を撮ったもので、二枚目はそのちょっと上から坂下を撮ったもので、上記の坂標識が西端に立っている。三枚目は坂の右側の崖につくられた石垣を撮ったもので、この坂のあたりは崖地であった。

この坂は、『御府内備考』の本郷之一の総説に次のように記されている。

「炭團(団)坂
  炭団坂は丸山の方へ下るの坂なり、此処はたどんなど商ふもの多かりしかばかく名付しや、詳にその名の起る所をしらず、【改選江戸誌】」

この改選江戸誌によれば、たどんなどを商う者が多かったのでこのように名付けられたとしているが、その説に自信がなさそうである。

同じく菊坂町の書上には次のようにある。

「一たどん坂
 但此坂切立てにて至て急成坂に有之候、往来の人転び落候故たどん坂と唱申候、
 右二ヶ所共武家方持に御座候、」

これによれば、急坂で、通る人が転げ落ちたのでたどん坂というようになった、としている。たどん(炭の粉を丸くかためた)のように転がり落ちたのか、転がり落ちてたどんのように泥だらけになったのか。横関は、たどんのように泥だらけになったからとしている。

炭団坂中腹 炭団坂中腹 炭団坂上 一枚目の写真は、標識のちょっと上から坂上を撮ったもの、二枚目はそのあたりから坂下を撮ったものである。三枚目はさらに上から坂上を撮ったもので、坂上はまっすぐに南へ延びている。

横関によれば、急坂を意味する坂名として江戸時代から多いのが、高坂で、つぎは胸突坂であるという。江戸には上るときの名である胸突坂だけで、下るときの坂の名がないとする。江戸の川柳に「男坂おりかけて見てよしにする」とあるように、江戸っ子は坂を下る前に急坂を避けたからである。これから、男坂も急坂に含めるべきとする。団子坂も急坂で、転びやすい坂で、これと同じなのが炭団坂である。同名の坂が江戸に二、三ヵ所あり、みんな裏道の、じめじめした、雨上がりにはいつもぬかっているような坂であるという。

また、横関は、この坂の別名を初音(はつね)坂とする。鶯(うぐいす)の初音坂ではなく、ほととぎすの初音坂である。『江戸名所和歌集』の次の歌を紹介している。

  ほととぎすをちかへりなく声をしもけふきく坂やのぼりくだりに

  丸山をさして鳴行ほととぎすしばしば声をきくや菊坂
炭団坂上 炭団坂上 炭団坂上 坪内逍遙旧居跡 この坂は意外なことであるが、坂上からの眺望がよい。坂下側に高い建物がないためである。一~三枚目の写真は、坂上から坂下の北側方面を撮ったものである。階段を上り、ふり返ると、写真のような風景を眺めることができ、その意外性がなかなかよい。方向的には梨木坂方面であろう。

一、二枚目の写真のように、坂上を右折し反転するようにして道なりに進むと、先ほどの崖上を通って、鐙坂の坂上に至ることができる。写真にも写っているが、反転して間もないところに、四枚目の坪内逍遙旧居・常磐会跡の標識が立っている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「新潮日本文学アルバム 宮沢賢治」(新潮社)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 本妙寺坂 | トップ | 鐙坂 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

坂道」カテゴリの最新記事