前回の新壱岐坂の北側歩道を坂下から上り中腹の信号を斜め左に入ると、壱岐坂の坂下である(現代地図)。新壱岐坂の通りのわきからまっすぐに東へ上っている。坂上からもそのまま東へ延びて本郷通りに接続している。
一、二枚目の写真は、新壱岐坂の反対側歩道から坂下を撮ったもので、東洋学園大学の北側を上下する坂道である。三枚目は坂下から坂上を、四枚目は坂下からちょっと進んで坂上を撮ったもので、中程度の勾配で上っている。
本郷二丁目26番と27番の間の坂で、新壱岐坂中腹から東へ新壱岐坂よりも短い距離で本郷台地へ上るので、新壱岐坂よりも勾配がついている。
一枚目の写真は坂下からちょっと上ってから坂下を、二枚目はその先から坂上を撮ったものである。二枚目の左に坂の標識が写っている。三枚目はさらに上って坂上を、四枚目はその上から坂下側を、下一枚目は坂上を撮ったものである。
中腹の歩道北側に立っている坂の標識に次の説明がある。
「壱岐坂(いきざか)
「壱岐坂は御弓町へのぼる坂なり。彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。按に元和年中(1615~1623)の本郷の図を見るに、此坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志)
御弓町については「慶長・元和の頃御弓同心組屋敷となる。」とある。(旧事茗話)
文京区 昭和48年3月」
二枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)には、ケキサカ(外記坂)の南にイキトノサカ(壱岐殿坂)があるが、これがこの坂である。近江屋板(嘉永三年(1850))にも、△イキトノサカとある。
坂名の由来は標識のように、小笠原壱岐守の下屋敷があったためとされるが、その屋敷は、江戸初期の元和(1615~1623)の絵図に見えるとのこと。
二枚目の尾張屋板江戸切絵図では、壱岐坂はまっすぐに青山大膳亮の屋敷(坂下南側)まで下っている。現在の壱岐坂も、上記の坂下(東側)で終わるのではなく、新壱岐坂を斜めに横切って西へ白山通りまで下っている。この坂は新壱岐坂ができたため、東西に上下が分断されているが、全体の距離は本郷台地から白山通りの谷までかなり長い。
現代地図を見ると、壱岐坂の坂下(東側)の延長と考えられる道が西側に二本あるが、新壱岐坂ができる前の実測東京地図(明治11年)や明治地図(明治40年)を参照すると、北側の新壱岐坂に近い方の道と思われる。
三枚目は、その道の近くから新壱岐坂の坂上側を撮ったもので、遠くの真ん中に見える信号のところが、壱岐坂東側の坂下(正確には中腹)である。そこでちょっと曲がってから新壱岐坂を下り、西側の坂へと続く。
上四枚目の写真は、壱岐坂を西側の坂下まで下り、白山通りの歩道から坂上側を撮ったもので、まっすぐに上っている。一枚目は途中の四差路から坂上側を、二枚目はその近くから坂下を撮ったものである。このあたりではかなり緩やかな勾配である。三枚目は、さらに上って坂上側を撮ったもので、この上で上三枚目の写真のように新壱岐坂に吸収される。四枚目はその上側からふり返って坂下を撮ったものである。
この壱岐坂の西側は、本郷一丁目18番と21番の間から下り、坂下は20番と22番の間である。この道は石川に紹介されている。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)