前回の旧東富坂の中腹の小路へ坂上から左折する。南へまっすぐに延びる細い道を進むと、やがて右手に階段坂の坂上が見えてくる(現代地図)。ここが新坂、別名が外記(げき)坂である。
一枚目の写真は坂上から撮ったもので、坂上側でほんのちょっと右に曲がってからまっすぐに西側へ下っている。階段の中央に手摺りが左右に二本、それに真ん中上側に一本あり、縦横二重になっている。二枚目はちょっとだけ下ってから坂上を撮ったもので、この左手方向(北側)からアクセスしてきた。
三枚目は坂下から、四枚目はそのちょっと上から坂上を撮ったものである。そんなに勾配はなく、西片の曙坂と似た感じである。
本郷一丁目25番と33番の間にあり、坂下の左側(北)に水道橋グランドホテルがある。
実測東京地図(明治11年)を見ると、ちょうどこのあたりは本郷台地の西端に位置する。この坂は、台地の崖にでき、白山通りの谷と本郷台地とを結ぶ坂である。
一枚目の写真は中腹から坂上を、二枚目はそのあたりから坂下を撮ったものである。三枚目は坂上側に上って坂上を、四枚目はさらに上って坂上を撮ったものである。下一枚目は坂上から坂下を撮ったものである。
坂下を直進すると、白山通りで、左折するとすぐ新壱岐坂通りである。さきほどから坂を上下していると、遠くの方からしきりに歓声が聞こえてくる。なんだろうと、白山通りの方を見ると、その向こうにいわゆる絶叫マシーンがあるようだ。二枚目の通りの向こうにちょっと写っている。料金を払ってきゃーきゃーとこわがって楽しむ、みょうといえばみょうな遊びである。
一枚目の写真のように坂中腹左側(北)に坂の標識が立っていて、次の説明がある。
「新坂(外記坂)
区内には、新坂と呼ばれる坂が六つある。『東京案内』に、「壱岐坂の北にありて小石川春日町に下るを新坂といふ」とある。『江戸切絵図』(嘉永6年尾張屋清七板)によると、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある。新坂というが、江戸時代からあった古い坂である。
この坂の一帯は、もと御弓町、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年ごろ)御弓町の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。明治の頃、石川啄木、斎藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ。
東京都文京区教育委員会 昭和63年3月」
一枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図(右斜め上が北)を見ると、(旧)東富坂の方から南へ延びる道の突き当たりにケキサカとある。そこを右折した道がこの坂である。上記の標識の説明では、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があったとしているが、この尾張屋板の版では内藤肥後守になっている。
近江屋板(嘉永三年(1850))には、この道に△シンザカとあり、坂上北側は内藤外記の屋敷である。
上記の二つの江戸切絵図から新坂(外記坂)の存在が明らかであるが、新坂とは江戸時代のいつごろできたのか不明である。外記坂は坂上北側の屋敷の主である内藤外記にちなむのであろう。
明治地図(明治40年)や戦前の昭和地図(昭和16年)を見ると、この坂に相当する道はあるが、階段坂であることはわからない。いつ階段に改修されたのか不明だが、石川や岡崎に階段坂であることの記述がないため、比較的最近と思われる。
この坂は、白山通りや新壱岐坂通りの広い道から入るとすぐのところに坂下があり、坂上でもちょうど曲がり角にとつぜん階段があるといったように、意外なところにある。そして、坂を上ることで坂下の喧噪から遠ざかるようになっている点でおもしろい位置にある。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)