前回の豊坂上を道なりに進むと、南北へ延びるちょっと広い通りに出る。ここを南へ進むと、途中、道の真ん中に、老木がそびえ立っている所があって、道が左右に分かれてふくらんでいる。ちょっとめずらしい光景なので、一枚目の写真のように、シャッタを押してしまった。
南へ進むと、やがて突き当たるので、右折し、左折、右折すると、階段の上にでる。階段下、道を挟んで向こう側がおとめ山公園である。二枚目は、その出入口である。三、四枚目のように、入口から入ったところから一段低い位置に大きめの池があり、そのまわりをぐるりと一周できるようになっている。傾斜地にできた公園で、両わきにある道は南へ下りる坂である。
この公園については新宿区のホームページに次のように紹介されている。
「おとめ山公園は落合崖線に残された斜面緑地です。
江戸時代、おとめ山公園の敷地周辺は、将軍家の鷹狩や猪狩などの狩猟場でした。一帯を立ち入り禁止として「おとめ山(御留山、御禁止山)」と呼ばれ、現在の公園の名称の由来となっています。
大正期に入り、近衛家・相馬家が広大な庭園をもつ屋敷を造成しました。のちに売却され、森林の喪失を憂えた地元の人たちが「落合の秘境」を保存する運動を起こし、昭和44年(1969)にその一部が公園として開園しました。湧水・流れ・池・斜面樹林地からなる自然豊かな風致公園となっています。」
おとめ山とは、「乙女山」ではなく、将軍家の鷹狩などの狩猟場で一帯を立ち入り禁止としたため「御留山」とされたことに由来するらしい。
西側からいったん出て道路を横断し、公園にふたたび入る。こちら側の方が広い。中に入るとまもなく流れができていて、それに沿って歩くと池がある(一枚目の写真)。さらに進むと、湧水の源泉らしき所があり、水たまりはあるが、ほとんど流れ出ていない。
西側の出口近くで、左(南側)を見ると、二枚目のように、木立とフェンスとの間に道ができている。山道のようになっているので、思わずそちらに向かってしまう。登ると、三枚目のようにちょっとした頂上になっていて、西側に小学校のグランドが見える。ここから、左(東)へとさらに山道が続いていたので、ちょっと歩いてみる。四枚目のように、東屋などがあって、そのわきに山道が延びている。
南の方にビルがときおり見え、都会の風景が広がっているものの、ちょっと異次元空間に迷い込んだような気分になる。思わず、擬似的ではあるが、山歩きを楽しむことができた。
おとめ山公園から出たあたりが、相馬坂の坂上である。左折して坂上付近を撮ったのが一枚目の写真である。そこからちょっと下ってからふり返り、坂上を撮ったのが二枚目である。このあたりはまだそんなに急ではない。
この辺りから左側(東)を見上げると、三枚目のように、先ほど登った頂上のあたりが見えるが、これから、この坂は、おとめ山を切り開いた坂であることがわかる。
昭和十六年(1941)の淀橋区の地図を見ると、おとめ山公園一帯は、相馬邸となっていて、かなり広い屋敷であり、その西側に南北に延びる道がある。この南側が相馬坂であろう。相馬邸の南に、藤稲荷という神社があるが、これをたよりに、明治四十四年(1911)の地図を見ると、このあたりは字丸山となっていて、大きな屋敷もなさそうで、この坂もない。石川に、明治末年か大正初年に開かれたらしいとある。
坂上から下へ向かいちょっと曲がるが、それからほぼまっすぐに南へ下っている。
中腹のあたりから勾配がちょっとついてきて、下側で中程度の勾配となる。坂下に標柱が立っていて、次の説明がある。
「この坂に隣接する「おとめ山公園」は、江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立入りを禁止した御禁止山(おとめやま)であった。この一帯を明治時代末に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた。」
この坂は、かつて訪れたことがあるが、そのときは、落合の坂を西から東へめぐり、最後にここに来てから、おとめ山公園に向かったのであった(以前の記事)。
今回は、そのときとは逆に、ここから西へ向かう。
(続く)
参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「昭和十六年大東京三十五区内淀橋区詳細図」(人文社)
「東京市十五区・近傍34町村㉕北豊島郡長崎村・豊多摩郡落合村全図」(人文社)