前回の久七坂下を右折し、西へ進むと、新目白通りと北からの道との交差点にでる。聖母坂の坂下で、ここから北へまっすぐに上っている。坂上の先は目白通りであるので、新旧目白通りを結ぶ道である。ここも落合崖線にできた坂であろうが、平均化されており、緩やかに上っている。
この坂道は、交通量があり、これまでの坂、これから行く坂と感じがまったく違うので、上らずに、交差点を横断し、西坂に向かう。
一、二枚目の写真は、以前(2010年4月)来たときに撮った聖母坂の坂下、中腹である。そのとき坂中腹から東に向かい、小階段を上り、久七坂上にでた。
交差点を渡り、新目白通りの裏手の道を西へちょっと進むと、三枚目のように、西坂の坂下に至る。四枚目はちょっと上ってから坂下を撮ったものである。
一枚目の写真のように、西へ緩やかに上ってから、二、三枚目のように右に左に曲がりうねりながらちょっと急になる。中村の測定による傾斜角は7.5°である。ここもまた落合崖線の一部であろう。
坂下と坂上側に標柱が立っている。次の説明は、以前来たとき坂下に立っていた標柱の説明である。
「西坂(にしざか)
『豊多摩郡誌』に「西坂、新宿道、字本村と字不動谷との間にあり」とある。
坂名の由来は、この坂が字本村の西に位置するからだという。かつて坂上にあった徳川男爵邸の庭園は、ボタンや菊の時期に一般公開され、この坂のあたりも賑わったという。」
明治四十四年(1911)の豊多摩郡落合村の地図を見ると、聖母坂も新目白通りもないので、どの道かちょっと迷ってしまうが、この坂道に相当すると思われる道がある。興味深いのは、この坂上と聖母坂あたりにあった道との間に川が流れていることで、ここは谷地であったと思われる。現在の聖母坂の西側である。
昭和十六年(1941)の淀橋区の地図では、現在とほぼ同じで、新目白通りはまだであるが、予定線が見える。坂の右(東側)に徳川別邸がある。
中腹で二度ほどうねってから、三、四枚目の写真のように、坂上に近づくと、緩やかになる。
石川によれば、この坂は、七曲坂と並んで古道で、もとの落合村と中井村の村境であった。明治末まで坂道が狭く、雑木や笹が両崖に茂ってもの寂しかったが、徳川家が坂側の台地に別荘を建て、続いて近衛家もその向かい側を別荘地としたために坂道が拡げられたという。
坂上東側に西坂公園があるが、徳川邸の一部であったのであろう。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「東京市十五区・近傍34町村㉕北豊島郡長崎村・豊多摩郡落合村全図」(人文社)
「昭和十六年大東京三十五区内淀橋区詳細図」(人文社)
中村雅夫「東京の坂」(晶文社)