東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

哀悼 吉本隆明

2012年03月17日 | 吉本隆明

きのうの朝、パソコンを立ち上げメールを見ると、京都の三月書房からメールが入っていて、それにより吉本隆明が死去したことを知った。1月に肺炎にかかり、日本医科大付属病院に入院していたところ、3月16日午前2時13分に亡くなったという。

高齢であったので、遠くない将来にこういったときがくると覚悟していた。しかし、いざなると、単なる一読者ではあるが、やはりショックであり、それがまだ続いている。その明け方、ちょっと大きめの地震で起きてしまったが、そのときすでに亡くなっていたと思い返すと、それを知らせるものだったなどというらちもない思い込みに陥るほどである。平成8年(1996)伊豆の海岸での水泳事故のときも同じであったが、その後、一命をとり止めたので、その衝撃感は和らいだのであったが。

その前日、仕事帰りによく行く書店によって、ちょうど、吉本本を二冊購ったところだった。そのうちの一冊は、石川九楊(書家・評論家、京都精華大学教授)との対談本『書 文字 アジア』(筑摩書房)で、もう20年も前の対談であるが、新刊である。吉本の発言を読むと、言語について基本的で重要な考えが随所にあらわれる。

「言語以前の言語
 吉本 ・・・〈言語以前の言語〉、つまり人間で言いますと胎内にあるときから生まれて一歳ぐらいまでのあいだが要するに〈言語以前の言語〉の段階です。歴史的に言うならば、未開・原始のある時期までがたぶん〈言語以前の言語〉ということになる・・・」(29~30頁)

言語を考えるとき、言語以前の言語から入るという、根源的な方法が示されている。もとへもとへとたどり、初源的なところまで突きつめる。

「内臓の言葉と感覚の言葉
 吉本 言葉というものを考えるときにですね、言葉以前の言葉というところまで考えを突きつめていきましてね。結局いちばん確からしいと思えるから、そう考えるようになったんですが、言葉以前の言葉を考えれば、〈内臓の言葉〉と〈感覚の言葉〉というところまでいっちゃうのです。〈内臓の言葉〉というのは、ぼくが『言語にとって美とはなにか』を書いたときに、自己表出といったものです。内臓の言葉以前の言葉というのと、感覚の言葉つまり語感からつくられていく言葉以前の言葉というのが、結局は両方は違うんだということ。そのふたつが綯い交ぜ(ないまぜ)の状態になって表出されてくるということ。言葉以前ということを考えていけば、そうなっちゃうんじゃないかと思ったのですけどね。・・・」(53~54頁)

吉本が云うところの自己表出とは内臓の言葉であり、そうだとすると、指示表出は感覚の言葉ということになる。発生学的な解剖学の三木成夫の考えから根拠を得たという。三木は、『胎児の世界-人類の生命記憶』(中公新書)などの著者で、吉本がたびたび引用するので、かなり前だが読んでみた。これで個体発生は系統発生の繰り返しという考えがあることを知った。人類史を考える上で、きわめて根源的な世界が広がっている。

「自然観と言語
 吉本 ・・・この人たち(ソシュールやヤコブソンのこと/引用者註)の言語観や言語論の背後に何かあるのかというと、もちろんやはり自然ということについての観念があるかもしれない。また自然ということの観念の背後に何があるかというと神という概念があるかもしれない。そうすると、この人たちにとっては神があって、自然というのは神がつくったものだ、もちろん人間もその被造物のひとつだということになる。そうすると、どうしても神というものが出てくる。つまり一神教の神ですね。これでいけば、どう考えたって、「れ」なら「れ」をどう書こうと意味は「れ」なんだ、また白で書こうが黒で書こうが、色つきで書こうが「れ」は「れ」だという観点になっちゃうような気がするんですよ。ところが、日本語みたいな、あるいはまたある特異な自然観をもっているところの言語では、自然ということと人間ということとが同じになっちゃうし、あらゆるものが、神というものでさえ自然と同じになってしまう。自然の動きが全部神と同じだということになって、滝が落ちていれば滝津姫だとかね、神の名前になってしまう。自然物すべてに神がくっついてくるみたいな世界になってしまうと、その世界では言葉というのは具象性から離れられないということになってしまうし、この特質がなければ少なくとも仮名文字の書というのはどうしても成り立たないのではないでしょうか。そこだと言語観自体もそうならざるをえないということに思えてくるのですね。そこがどうしても、ソシュールの言語観でも、ヤコブソンの言語観でやられても、どうも納得できないのですね。だから、日本の自然観は特殊というのではなくて、日本と同じ共通の自然観というのは環太平洋的にあるんでしょうけれども、そういうところの自然観は言語観と結びつくし、それはどうしても具象性とどこまでいっても切り離せないから、やっぱり、つまり「れ」は「れ」じゃないか、記号は記号じゃないかとどうしてもいけない。言っても言えなくはないけど、何かそれじゃおもしろくはないなといますかね、何か余っちゃうな、残っちゃうなという、どうもそこじゃないかという気がしますね。自然現象を擬人化してしまうようなところというのは、文字あるいは言語感覚や書くということが具象性から離れられないということと関わっているのじゃないかなという感じがするんですけどね。だから、ぼくらも言語以前の言語というのを考えてきたら、どうもその問題と引っかかってきたんですね。神という意識がないならば、性ということになって、背後には父がいるんですね。こちらの日本語という言葉の場合には背後に母がいるみたいなことになっちゃって、どこまでいってももうべったりということになるんですね。イメージと言葉との共通に通用する理論をなんとかしてやりたいと考えてきたんですけどね。」(59~61頁)

ソシュールやヤコブソンの言語観に対する違和感を突きつめて考え、自然と神との関係の違いに至っている。向こうは自然のみならず人間でさえ神の被造物であるが、日本を含む環太平洋的な自然観では、自然と人間が同じで、自然がなんでも神となる。滝があれば滝津姫である。このような自然現象の擬人化は、文字・言語感覚や書くことに具象性がついて離れないことになるとする。

この後、角田忠信(1926~)の日本人の脳についての研究から次のようなことを云っている。

日本人とかポリネシアの人たちに母音の「あ」と発音させると、ちゃんと左の脳で考え、ヨーロッパ人とか中国人とかは右の脳で感じる。ポリネシア語圏に属する人々は日本人も含めて全部左の脳の言語脳といわれる部分で感じるように、風の音や鳥のさえずりまで人語に近いことをしゃべっているように聞こえてしまう語圏と、そうじゃない語圏がある。

きわめて興味のある視点である。これから上記の自然現象の擬人化が起きるのだとすれば、日本人を含めてポリネシア語圏に属する人々の自然観、宗教観は、本源的なもので、そう簡単に変わるものではなく、そこから考えはじめるべきであるということになる。

本著では、主題の「書」に関し、いろんな人の書をそれぞれの視点から論じているが、特に、良寛、岡本かの子、高村光太郎についてのものが、その本質に肉薄しているようでおもしろかった。これらの人(特に、岡本)のことをさらに知りたくなってしまう。

以上、新刊本に対する簡単な感想であるが、それにしても、吉本は、表現に関する論点になると、つねに根源的な考察をすることにあらためて気がつかされる。そして、それは、これに限らず、彼がとりあげるどんな分野でもそうである。いってみれば、平面的な思考に対し、別の根本的な思考軸をうち立て、立体的な思考から不知の対象に切り込んでいく。この思考の魅力から離れられそうにない。

吉本は亡くなったが、少なくともわたしにとっては膨大な著書が残されている。荷風のいい方をまねて、余生はこれらの書物を読んで過ごしたいという気分であるというのは大げさであろうか。

コメント (1)
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