東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

七曲坂

2012年03月25日 | 坂道

七曲坂手前(東側) 七曲坂下 七曲坂下側 七曲坂下側 前回の相馬坂下を右折し、西へ向かい、ちょっと歩くと、一枚目の写真のように、正面左手に氷川神社が見えてくる。

神社のわきを進み、神社の裏手を通りすぎるとすぐ右折する道がある。二枚目は、その道を撮ったもので、ここが七曲坂の坂下である。その名のとおりうねうね曲がりながら上っている。

坂下からほぼまっすぐに上るが、ちょっとすると、右に緩やかに曲がっている。そして、ふたたびまっすぐに上ったかと思うと、左に大きく曲がる。まっすぐの道も、どことなくカーブしているように感じる。別名、七囲坂(ななめぐりさか)。

以前来たとき、坂下と中腹のカーブの付近に標柱が立っていたが、現在、新しくなって、坂上にだけ立っている。次の説明がある。

「七曲坂(ななまがりさか)
 折れ曲がった坂であることからこの名がついた(『江戸名所図会』)。古くは源頼朝が近在に陣を張った時、敵の軍勢を探るためにこの坂を開かせたという伝説がある(『遊歴雑記』)。」

上記の『江戸名所図会』の記述は、次のとおりである。

「七曲坂 同じ所より鼠山の方へ上る坂をいふ。曲折ある故に名とす。この辺は下落合村に属す。」

落合ではもっとも古い坂道で(石川)、他の坂は、江戸時代からあったとしても無名であったようである。源頼朝伝説について横関は懐疑的である。

七曲坂中腹 七曲坂中腹 七曲坂中腹 七曲坂中腹 一、三枚目の写真のように、中腹の左に大きく曲がるところがこの坂のポイントで、しかも勾配もかなりある。カーブしながら高度を上げ、その前後で、くねくねと曲がっている。

この辺りの谷地と台地との境を落合崖線とよぶらしく、この崖線は前回のおとめ山から西へ延びている。ここから西にある坂はこの崖線にできた坂で、この七曲坂よりも急なところが多い。

大正五年(1916)刊行の『豊多摩郡史』に次のようにある。

「七囲り坂 馬場下通 御禁止(おとめ)山の麓にあり、大字下落合丸山と同村本村の中間にあり、曲所七ヶ所より成れる坂路にして昔より本名を得たるが、明治三七年に開穿して交通の便に資せり」

明治四十四年(1911)の豊多摩郡落合村の地図を見ると、中腹あたりの道筋がいまと違い、左に曲がってから、そのすぐ上(北側)で右へほぼ直角に曲がっている。これに対し、昭和十六年(1941)の淀橋区の地図では、いまとほぼ同じ道筋である。上記の明治三七年の開穿後にも、改修工事があったものと思われる。

七曲坂中腹 七曲坂上側 七曲坂上 七曲坂上 中腹の大カーブをすぎると、二枚目の写真のように、しだいに緩やかになって、坂上の四差路に至る。三枚目がその四差路であるが、左側に上記の標柱が立っている。四枚目は、標柱をいれて坂下側を撮ったものである。

ここを右折し進むと、前回の相馬坂上、おとめ山公園に至る。

この坂は、田郁の時代小説『出世花』の「見送り坂暮色」に登場し、次は、その冒頭である。

「下落合は坂の村だ。しかし、源頼朝が拓いた、という伝承の残る七曲坂の他は、ほとんどが無名の坂ばかりであった。
 その七曲坂は、氷川社の裏手から、名の通りにうねうねと身をくねらせて山中深く伸びている。途中、御留山を避けて西へ入る脇道があり、その道を上った先に、お縁の暮らす青泉寺はあった。したがって、青泉寺に運び込まれる亡骸は、必ずこの脇道を通ることになる。
 七曲坂を行く土地の者は、戸板に乗せられた骸が通るたび、静かに道を譲り、葬列が左に折れて上って行くのを頭を垂れて見送るのが常であった。それゆえに、いつしかこの脇道は「見送り坂」と呼ばれるようになっていた。」

主人公お縁(正縁)は、偶然のことから住職とその弟子の正念のいる青泉寺で成長し、湯灌(ゆかん/死体を洗い清めること)を手伝うようになり、やがて、湯灌を専門とする毛坊主となる。三昧聖(さんまいひじり)ともよばれるが、この方が、けなげな少女お縁によくあう。

七曲坂上 七曲坂上 七曲坂上(西) 七曲坂上(西) 上記の四差路を直進すると、緩やかで勾配はほとんどないが、坂の続きで、一枚目の写真のように、くねくねしながら北へ延び、やがて、目白通りに至る。

二枚目は四差路を直進してすぐにふり返って四差路と坂下を撮ったもので、三枚目は四差路から西側を撮ったもので、西へと道が延びている。

『出世花』でいう「御留山を避けて西へ入る脇道」とは、三枚目の西へ延びる道と思われる。

四枚目は、四差路を左折し、西へ延びる道を進み、その途中、進行方向を撮ったもので、下一枚目は、さらにその先の公園のわきで撮ったものである。「その道を上った先に、お縁の暮らす青泉寺はあった」とあるので、青泉寺はこの辺りに設定されたと思われ、この道が「見送り坂」であるが、この坂名は作者の創作であろう。

七曲坂上(西) 七曲坂上 江戸名所図会 落合惣図 江戸名所図会 落合蛍 上四枚目、一枚目の写真のように、西へ延びる道に沿って静かな住宅が続いており、しだいにやや北へ方向を変え、やがて、目白通りに出る。ここを右折し、しばらく歩道を歩き、スーパーの手前(下落合3-12と14の間)で右折する。ほぼ平坦な道が南へ先ほどの四差路まで続くが、まっすぐではなく、うねっている。

二枚目は、四差路に近づいてから進行方向(南側)を撮ったものである。横関はこの坂を目白通りまで上るとし、このあたりの曲折も「七曲」に含まれると考えている。

三枚目は、『江戸名所図会』の挿絵で、落合惣図(右半分)である。四枚目は、同じく落合蛍(右半分)である。

落合惣図を見ると、中央右に、神田川(江戸川)にかかる田島橋が見え、その左に氷川明神がある。氷川明神社は『江戸名所図会』に「田島橋より北、杉林の中にあり」とあるが、杉林の中に鳥居と小さな社殿が見える。その上側一帯にあるこんもりとした山が御留山で、その左側、氷川明神の斜め上に、何回もうねりながら上へと続く山道が見える。これが七曲坂であろう。

上記の『江戸名所図会』に「鼠山の方へ上る坂」とある鼠山(寝ず見山)とは、上側左のちょっとこんもりとした山であろうか。このあたりは紅葉の名所であったという(横関)。

『出世花』の「見送り坂」は、その鼠山の直下から左へと延びている。ここをお縁が歩き、その前をお縁がひそかに慕う正念も歩いている。そんな光景が眼に浮かぶようである。

落合蛍は、落合惣図と反対方向から見た図で、上側左に田嶋橋が見え、その右側に氷川明神がある。その手前の田圃のわきに提灯や団扇を手にした人々が集まっている。蛍狩りの風景である。図の上にある文は、次のとおり(ただし、「永正十三年~」は左半分にある)。

「落合蛍 この地の蛍狩りは、芒種[6月5日頃]の後より夏至[6月22日頃]の頃までを盛りとす。草葉にすがるをば、こぼれぬ露かとうたがひ、高くとぶをば、あまつ星かとあやまつ。遊人暮るるを待ちてここに逍遙し壮観とす。夜涼しく人定まり、風清く月朗らかなるにおよびて、はじめて帰路をうながさんことを思い出でたるも一興とやいはん。 永正十三年[1516]正月、後奈良院後撰『何曾』 秋の田の露おもげなるけしきかな 蛍」

現在とはまったく違った風景が広がっている。たかが200年ほど前であるが、かつてそんな風景が存在したことが不思議なような気もしてくる。この間、われわれは何を得て何を失ったのだろうか。つい、そんな疑念がわき上がってしまう。

四差路からそのまま坂を下り、先ほどの坂下までもどる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「江戸名所図会(四)」(角川文庫)
「新訂江戸名所図会4」(ちくま学芸文庫)
「東京市十五区・近傍34町村㉕北豊島郡長崎村・豊多摩郡落合村全図」(人文社)
「昭和十六年大東京三十五区内淀橋区詳細図」(人文社)
田郁「出世花」(祥伝社文庫)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする