前回の五条坂で今回の京都の坂の記事は終わる予定であったが、ちょうど、三年坂(産寧坂)について参考となる資料が二つ見つかったので、それらを紹介する。(二枚の写真は今回訪れた三年坂の坂下である。)
『京都地名研究会「京都の地名 検証 2」(勉誠出版)』
同書(125~127頁)は、三年坂について始めに、次のように紹介している。
「三年坂は清水寺の楼門のやや西北、清水寺と五条坂との交差点付近から北の方向に向かって下る坂である。その勾配のきつさは、清水寺の上方から流れ出す轟川によって、長い歳月をかけて削られたことによる。現在は四五段の石段の両側に瓦屋根の土産物屋や旅館が並んで、独特の情緒をかもし出している。数ある京の観光地の中でも指折りの名所だろう。」
三年坂が出てくる資料として明暦四年(1658)成立の『京童』があり、そこに、この坂の名が大同三年(808)に造成されたことに因み、また、子安の塔に続く坂なので、産寧坂というとも云われるとあるという。安産信仰を集めた泰産寺の子安の塔に至る坂という意味らしい。泰産寺は、天平二年光明皇后によって建立されたといわれ、清水寺楼門前にあったが、明治末に本堂南側の錦雲渓に移転した(いまの三重の塔)。
三年坂は産寧坂の訛伝(誤って伝わること)であり、その本源は泰産寺・子安の塔である。前回の記事のように、ガイド本は産寧坂から三年坂となったとするが、これが通説らしい。
光明皇后の安産伝説と別の『子安物語』という泰産寺周辺で伝わった物語を引用し、この坂を、中世後半以降、いわば生と死の交差する地点だったとユニークな視点でとらえている。
安産祈願の「産寧坂」と死に至るという「三年坂」とはもともと結びつきやすかったとするが、これは、そういった視点に立つとよく理解できる。
正徳四年(1714)成立の『都名所車』にある、ここで転んだ老僧が人々の心配をよそに、あと二年は安心だと笑ったという逸話と、万が一転んだ場合の魔除けとなる瓢箪を売る店は現存することが紹介されているが、いずれも、三年坂の俗信を笑い飛ばすかのようである。
『市古夏生・鈴木健一 校訂「新訂 都名所図会 一~五」(ちくま学芸文庫)』
同書は、秋里籬島著の『都名所図会』およびその続編の『拾遺都名所図会』からなる。前者の底本は、安永九年(1780)刊行の初版を基に記事、挿絵に修正を施した天明六年(1786)刊行の再刻本で、後者は天明七年刊行の初版の吉野屋版である。
一、二枚目は、拾遺巻之二(「新訂 都名所図会 四」)にある清水三年坂の挿絵である。一枚目(左)に、石段の三年坂の中腹から下が描かれ、坂下に流れているのが上記の轟川で、坂上左手に延びる道は、清水寺へ至る清水坂であろう。
二枚目(右)には、中腹から上が描かれ、坂上右手が清水坂下側で、上側が五条坂であろう。坂下に窯が並び煙が上っているが、清水焼と思われる。
この絵を見ると、江戸名所図会の挿絵と同じ描き方のようで、これが当時の伝統的な技法なのであろうか。
また、巻之三(「新訂 都名所図会 二」)の本文に次のようにある。
「八坂 といふは、北は真葛原、南は清水坂までの惣名なり。その中に八つの坂あり。祇園坂・長楽寺坂・下川原坂・法観寺坂・霊山坂・山ノ井坂・清水坂・三年坂等なり。」
今回の清水坂、三年坂は、上記のように八坂に含まれるが、他の坂の現状はどうなっているのか興味のあるところである。
前回の五条坂から五条通を西へ進み鴨川の辺にでて、五条大橋のちょっと上流から鴨川の岸辺を三条大橋まで歩いた。一~四枚目の写真はそのときに撮ったものである。
道路から一段下がった位置に川に沿った散歩道ができていて、親水的な雰囲気で川沿い散歩を楽しむことができるようになっている。
この川は、東京でいえば、隅田川に相当するかもしれないが、こちらの方がかなり水はきれいで、散歩道もすべてをコンクリートで覆っていないのがよい。カモメがたくさん浮かんだり飛んでいる。アオサギらしきものもいた。
ジョギングの人や同じように散歩する人と時たますれ違うだけで、静かな散歩が楽しめる。先ほどの坂巡りで人混みの中にいる気分であったので、ここでゆったりした気分になれた。時間があればもっと上流まで歩きたかったが、いずれまた。
参考文献
「文庫地図 京都 2012年3版」(昭文社)
「散策&鑑賞 京都編 2011年度版」(ユニプラン)