東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

妙正寺川の坂巡り(3)

2010年04月24日 | 坂道

聖母坂の中腹の信号近くから東側の道に入ると階段があり、これを上って進み、右折すると、久七坂の坂上にでる。

そのまま下ると、左、右とかなり曲がってからまっすぐに下っている。

坂下に標柱があった。その説明は次のとおり。

「『豊多摩郡誌』には、もとは田んぼへ行き来するための道で、急な坂であったと記されている。坂名はゆかりのある村人の名にちなむものであろう。」

むかしは、妙正寺川べりの田んぼは大半が山上の農家のもので、久七坂も住家から田んぼへ下る野良道であったという(石川悌二「江戸東京坂道辞典」)。これと同じ説明が国分寺崖線のハケにある坂にもあった。台地の方に住み低地に田んぼがある土地ではどこでもこのような坂が必要であったわけである。

坂下の通りを東側に進むと、下落合辨戝天があり、さらに進み左折すると、薬王院の山門が見える。

前回は、久七坂を坂下から進み、坂上で右折してそのまま薬王院に入り石段を下った記憶がある。このアクセスもなかなかよく、そのためかしっかりと覚えている。

山門前を右折して少し歩き、氷川神社の裏手近くを左折すると、七曲坂の坂下である。

坂下に標柱が立っているが、次のように説明している。

「折れ曲がった坂であることからこの名がついた(『江戸名所図会』)。古くは、源頼朝が近在に陣を張った時、敵の軍勢を探るためにこの坂を開かせたという伝説がある(『遊歴雑記』)。」

上記の「江戸東京坂道辞典」には、落合でもっとも古い坂とある。

この坂もその名のとおり曲がりくねっているが、霞坂、西坂、久七坂、とみごとにくねくねと曲がっている坂が続いたので、もうあまり感じなくなっている。坂は曲がりくねっているのが普通かと。。。

坂を上り進むと、四差路があるが、ここを右折し、小学校と中学校との間を進むと、相馬坂の坂上にでる。

この坂はこれまでの坂と比べてかなりまっすぐに上下している。

下り方向左側はおとめ山公園で、園内の樹木のために鬱蒼としている。

坂下の標柱には次の説明がある。

「この坂に隣接する「おとめ山公園」は、江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立入りを禁止した御禁止山(おとめやま)であった。この一帯を明治時代末に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた。」

やはり新しい坂のようであり、まっすぐであることに納得する。坂を往復して坂上からおとめ山公園に入る。

このおとめ山公園も前回訪れており、覚えていたので、右手下側の湧水地へと直行する。

水がしっかりと湧き出ているようで、ちょっと下流側に行くと水が流れていた。今回の坂巡りで始めて湧水にであった。ここは、湧水自然水のガイド本にも紹介されている。

次に、道路を挟んだとなりの公園に行き、中の弁天池を一周してから、東側から出て坂を下って高田馬場駅へ。

今回の街歩きは、前半が妙正寺川散策で、江古田公園手前でちょっとした冒険気分を味わい、後半が妙正寺川の坂巡りで、前回訪れたときの記憶の脆さや確かさがわかり、内面的にも不思議な感覚を感じながらの散策であった。

記事を書いている途中で坂の二つの文献の説明と標柱の位置との違いがわかり、この点がすっきりせず、課題が残った。

川散策と坂巡りの両方であったので総歩行距離はかなり長くなった。携帯の歩数計(家を出てから帰るまでのカウント)で22.3km。前々回の池田山~魚籃坂では12.5km、前回の呑川緑道では13.1km。 この歩数計の精度は不明だが、相対比較のため記した。

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