東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風とお歌(2)

2014年12月09日 | 荷風

前回の記事に続く。お歌は、昭和三年(1928)三月に西久保八幡町から三番町へ移っている。荷風が歌の待合営業の希望を叶えさせたのである。待合とは、待ち合わせや会合のための場所を提供する貸席業のことで、芸妓との遊興や飲食を目的として利用された。現在はない。

昭和3年(1928)3月17日の「断腸亭日乗」に次の記述がある。

「三月十七日 三番町待合蔦の家の亭主妹尾某なるもの衆議院議員選挙候補に立ち、そのため借金多くなり待合蔦の家を売物に出す、お歌以前より蔦の家の事を知りゐたりしかばその後を買受け待合営業したしと言ふ、四五日前よりその相談のためお歌両三度三番町見番事務所へ徃き今日正午までに是非の返事をなす手筈なり、それ故余が方にては東京海上保険会社の株券を売り現金の支払何時にてもでき得るやうに用意したりしが先方売払の相談まとまらず一時遂に見合せとなる、お歌落胆すること甚し、・・・」

三番町の待合蔦の家の亭主妹尾某が衆議院議員選挙に立候補し、そのため借金が増え、待合蔦の家を売物に出したが、お歌は、以前より蔦の家の事を知っていたので、その後を買い受けて待合営業をしたいと言う。四五日前よりその相談のためお歌は両三度三番町の見番事務所へ行き今日正午までに是非の返事をなす手筈になっていた。そのため、私の方では東京海上保険会社の株券を売り現金の支払を何時でもできるように用意をしていたが、先方で売払の相談がまとまらず一時ついに見合せとなって、お歌はすっかり落胆してしまった。

しかし、四五日のうちに事態が好転したようで、次のように3月22日にその待合の譲り受けが決まった。権利金三千五百円、家賃七十五円であった(秋庭太郎)。

「三月廿二日 ・・・、夜お歌訪来りて冨士見町待合譲受の相談まとまりある由語る、」

3月24日~26日は次のとおりで、お歌は早速、25日に三番町へ引っ越しをしている。

「三月廿四日 ・・・、明日お歌壺中庵を引払ひ三番町待合蔦の家跡へ移転する筈なり、壺中庵にて打語らふも今宵が名残なれば夕餉して後徃きて訪ふ、去年十月の末こゝに住まはせてより早くも半歳は過ぎぬ、夜半家に帰る、」

「三月廿五日 快晴、東南の風吹きすさみて烟塵濛々[えんじんもうもう]たり、午後笄阜子来訪、余が旧著下谷叢話を贈る、晡時風稍[やや]しづかになりしかば銀座太牙楼に赴き葵山子に会ふ、晩餐をなし初更別れて三番町に赴く、お歌既に西ノ久保の家より引移りて在り、蔦の家といふ屋号を改め幾代となす、これは余が旧作の小説夏姿といふものの中に見えた[えたる]名なればなり、手拭屋の手代来たりて弘めの手拭の下図を示す、されど山の手の亡八家業は余の如き褊狭なる趣味を以てなすべき事にあらざれば万事世俗一般の好みに倣ふこととす、十一時過自働車を呼びて家に帰る、」

この日、荷風は、夕方風が静かになったので、銀座太牙楼に行き、葵山子に会い、晩餐をし、初更(午後7時~9時)に別れて三番町に赴くと、お歌は既に西ノ久保の家より引っ越しをしていた。蔦の家という屋号を改めて「幾代」としたが、これは、(荷風の)旧作「夏姿」に見られる名である。手拭屋の手代が来てお披露目の手拭の下図を示したが、山の手の亡八家業は自分のような偏狭な趣味を以てやることではないので、万事世俗一般の好みに倣うことにした。十一時過に自働車を呼びて家に帰った。

「三月廿六日 朝来風雨、午後に至りて霽る[はれる]、彼岸前より雨なく庭の草木塵にまみれ居たりしが驟雨[しゅうう(にわか雨)]のため生色忽勃然として花香更に馥郁[ふくいく]たるを覚ゆ、雨後の夕陽明媚なり、暮夜三番町に赴き夕餉をなし二更の頃家に帰る、細雨糠の如し、」

引っ越しの次の日、暮れてから三番町に赴き夕食をし、二更(午後9時~11時)の頃家に帰ったが、霧雨がこぬかのようだった。

3月28日に、次のように、警察に営業引継ぎ届けを出している。

「三月廿八日 ・・・、昼飯すませて後お歌と共に麹町まで歩む、営業引継ぎの願書を麹町警察署に出すといふ、三丁目角にて別れ家に帰る、・・・」

麹町警察署は、現在と同じ、新宿通りの始点(半蔵門)近くで、二人は、三番町から御厩谷坂を上下し、袖摺坂、永井坂を上下して歩んだのだろうと想像したい(現代地図)。

「四月初一 旧閏三月十一日 曇りて風甚寒し、午後笄阜子来訪、晡下お歌来る、相携へて銀座に出で藻波に登りて晩餐をなし、十一屋その他にて待合客用の杯盤雑具を購ひ、江島印房にて仕切判を注文し三番町に赴きて宿す、」

荷風は、この日、歌とともに銀座に出かけ、十一屋その他で待合客用のさかずきやさらなどの雑具を購入し、江島印房で仕切判を注文した。

「四月初四 ・・・、晩間お歌訪ひ来りて是日午後待合喜久川の亭主を伴ひ自働車にて中野高円寺に住める家主をたづね三番町家屋貸借の契約をなせし由語る、また弘め手拭染上りたりとて持参す、麻の葉つなぎの中にいく代といふ家名を白く抜きたるなり、但し余が意匠せしにはあらず、手拭屋にてなせしものなり、三更の頃お歌帰る、送りて門外に出づるに幾望の月皎々とと照りわたりふきすさむ風の冷なることさながら寒月の夜の如し、枕上に松の葉をよむ、過日琴曲家中能島氏よりたのまれたる歌詞をつくらむがためなり、」

この日、お歌は、中野高円寺に住んでいる家主を訪ね家屋の貸借契約をしたと語り、また、染め上がった弘め手拭を持参した。麻の葉つなぎの中に「いく代」という家名を白く抜いたものであるが、荷風のデザインではなく、手拭屋によるものであった。

以上のように、待合営業開始に向けて準備が着々と進んでいる。

「四月十一日 ・・・、薄暮お歌来りて三番町待合開業の許可状明日あたり所轄の警察署より下げ渡さるべしと言ふ、夕餉すまして後銀座に出で物買ひて帰る、お歌わが家より更に自働車を命じて三番町に帰れり、風甚冷なり、枕上鷗外全集翻訳の小説を読む、」

この日、お歌から待合開業の許可状が明日あたりに出ると聞かされた。

秋庭太郎は、歌女のもとにはいまなお、三月二十八日付麹町警察署の関根歌名義の待合茶屋営業許可書が残っている、と記している。

「四月十二日 空よく晴れ渡りしが微風冷にして花盛の頃とも思はれず、衰老のわが身ばかりかくやと思ひしに、若き人も今日は風さむしといへり、終日何事をもなさず、読書をする気力もなし、唯寐つ起きつくして日をくらし三番町に徃くべき時の来るを待つのみ、さて三番町に徃きても別に面白きこともなく心浮立たず、火燵[こたつ]によこたわりて煙草くゆらしお歌の針仕事するを打見やりつゝやがて家に帰るべき時の来るを待つのみなり、世の諺に死ぬ苦しみと云ふことあれど薬飲み飲み命をつなぎて徒に日を送るも亦たやすき業ならず、此夜高輪楽天居に句会ありと聞きしが赴かず、」

このころ、荷風は、あまり体の調子がよくなかったようで、一日中何もせず、読書をする気力もない。ただ寝て起きて日をくらし三番町へ行く時を待つだけで、三番町に行っても別に面白いこともなくこたつに横になって煙草をくゆらし針仕事をするお歌を見ながら家に帰る時を待つのみである、などと記している。

幾代茶の間のお歌 「四月十三日 ・・・、晩間三番町に行く、昨夜深更に及び嫖客[ひょうかく]登楼するもの三人ありしと、此の夜も夕方より客来りしとてお歌よろこび語る、林檎を食して三更後家に帰る、」

前日から予定通り営業を始めたようで、初日に深夜になってから客が三人来て、この夜も客が来たとお歌はよろこんで話した。

このように、お歌の希望であった幾代の待合営業が始まった。
(続く)

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 荷風とお歌(1) | トップ | 善福寺川12月(2014) »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

荷風」カテゴリの最新記事