東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

軽井沢と荷風(1)

2014年09月06日 | 荷風

前回の軽井沢の記事を書いたときに気がついたが、永井荷風は昭和2年(1927)8月軽井沢に避暑に赴いている。偏奇館時代の荷風が東京を離れるのはめずらしい。荷風の日記「断腸亭日乗」によれば、8月11日に上野を発ち20日まで滞在している。これが気に入ったのか、24日に再訪し、28日に帰ってきている。

その出発の昭和2年(1927)8月11日の日乗は次のような記述になっている。長いが全文を引用する。

『八月十一日 前夜風月堂にて久しく口にせざりし珈琲を飲みたるが故にや、熟睡すること能はざりしを機とし、昧爽[まいそう]に起き出で旅装をとゞのふ、山形ほてるより辨当のサンドヰツチを取寄せ、十時四十分の汽車にて上野を発し軽井沢に向ふ、乗客幸にして輻湊[ふくそう]せず、是日空薄く曇りて溽暑甚し、赤羽駅を過ぎ荒川の鉄橋を渡る、緑楊蘆荻[ろてき]の眺望名所絵に見る所の川口渡頭徃昔の風光を想起せしむ、荷花的歴たり、余曾て日光に遊びしことありしかど既に二十年前の事なれば鉄道沿線の風景にして記憶に留るもの今や殆無し、たまたま、心頭に浮び来るものは近年熟読せし江戸儒家の遊記のみ、今朝家を出る時倉皇として机辺の乱帙[らんちつ]中より沢旭山の漫遊文章を把りて行嚢に収め来りしかば、之を繙き且読み且又風景を観望す、然れども武州平蕪[へいぶ]の眺望殊に看るべきものなし、熊谷駅を過るや隂雲四散し、桑圃渺茫[びょうぼう]たる処西北の方に当たりて始めて山影を望得たり、秩父の連山なるべし、桑圃の間胡麻甘藷玉蜀黍繁茂す、農家の籬[まがき]辺木槿[むくげ]花盛にひらくを見る、合歓紫薇の花も亦灼然たり、倉賀野駅を発するに老杉丁々一条の道路を挟んで連立するを見る、往昔の街道なるべし、丘陵道の西方に起りて蜿々[えんえん]扶輿す、須臾[しゅゆ]にして高崎の停車場に抵る、午後二時なり、携へ来りしサンドイツチを食ふ、高崎を発するに一帯の河流あり、河原広く水少し、西方の丘阜漸く近く、山腹皆耕されて田圃となれるを見る、桑圃は既に尽きて稲田となれり、稲葉青々として波の如し、再び河を渡る、石多くして水激す、山も亦迫り来つて風早くも渓谷の涼味を帯びたり、磯部駅を過ぐ、驟雨[しゅうう]沛然[はいぜん]として灑[そそ]ぎ来る、既にして雨少しく歇むや天辺忽一奇峰の突起するを見る、妙義山の南角なるべし、列車松井田駅を過るや雨霽れて雲間に妙義山の全景を望み得たり、横川駅を出でてより隧道を通過すること幾回なるを知らず、漸くにして軽井沢の停車場に着す、雨霏々[ひひ]として歇まず、車窓より赤帽を呼び行李を運ばしめんとする時、三田英児走り来りて余を迎ふ、盖し余上野を発する時松莚君に打電し旅舎のことを依頼したるを以てなり、自働車にて先松莚氏が宿泊せる鶴屋に抵り、再び三田氏に導かれて軽井沢ほてるに入り旅装を解く、雨猶歇まず、冷風肌を浸す、窓を鎖し一睡して車中の疲労を休む、日忽暮れ山気いよいよ肌に沁[し]む、「おとろへや家を出て知る山の秋、」「秋の日の髭剃る中に暮れにけり、」駄句を思う時食事の鐘聞えたれば衣服を改めて食堂に赴く、旅客の食卓に座するものを見るに大抵は西洋人にして帝国劇場歌劇興行の際常に見受くる者四五人もあり、食事将に畢りし時松莚氏令閨[れいけい]三田生を伴ひて来る、松莚子の東道にてホテル門前の街路を歩む、商舗は皆洋人を顧客となすものにして骨董仏器錦絵を陳列するもの七八軒あり、箱根宮下辺の光景と異る処なし、汁粉屋に憩ひ松莚子が旅舎の門前にて別れ帰り来りて直に枕に就きぬ、』

荷風の日記文は、それほど難しくはないが、旧字体や漢文調や荷風独特の用語などのため、いちいち調べなければならず、読みにくく、ちょっと親しみにくい。そこで、下に私訳を載せる(読みやすくなっていると信じて)。

「8月11日 前夜風月堂で久しぶりにコーヒーを飲んだためか熟睡できなかったが、これを機に、朝早く起きて旅支度を整え、山形ホテルより弁当のサンドイッチを取り寄せた。10時40分の汽車にて上野を発し軽井沢に向かったが、乗客は幸に込み合わなかった。この日空が薄く曇って大変むし暑かった。赤羽駅を過ぎ荒川の鉄橋を渡るが、緑のやなぎ、あし、おぎの眺望が、名所絵に見られる川口の渡し場の昔の景色を思い起こさせる。はすの花が鮮やかである。私はかつて日光に遊んだことがあったがすでに20年前の事なので記憶に残っている鉄道沿線の風景は今やほとんどない。たまたま心に浮かんでくるものは近年熟読した江戸儒家の遊記だけである。けさ家を出る時急いで机の周りにちらばっている本の中から沢旭山の漫遊文章を手にとって行李に収めて来たので、これをひもとき読んで、風景をながめ見渡した。しかし、武州の広い野原の眺望には特に見るものがない。熊谷駅を過ぎると空をおおっていた雲が四方に散り、桑畑がはてしなく広がっていて西北の方にようやく山影を望むことができたが、秩父の連山であろう。桑畑の間にごま、さつまいも、とうもろこしがよく茂っている。農家の間垣のあたりにむくげが花を咲かせているのが見え、ねむの木やさるすべりの花もまた盛りである。倉賀野駅を出発すると、老杉二列が一本の道路を挟んで並び立っているのが見えるが、むかしの街道であろう。丘陵が道の西からうねり曲がってのびている。しばらくして高崎の停車場に着くが、午後二時である。持ってきたサンドイッチを食べる。高崎駅を出発すると、一帯に川が流れており、河原が広いが水が少ない。西方の丘がようやく近くなるが、山腹がみな耕されて田畑となっているのが見え、桑畑はすでに終わり稲田となり、稲が青々として波のようにうねっている。ふたたび川を渡ると、石が多く水が激しく流れ、山もせまってきて風ははやくも渓谷の涼さを含んでいる。磯部駅を過ぎると、にわか雨がはげしく降りかかってきた。すでに雨が少し止んだが突然頂上に一奇峰が突き出ているのが見える。妙義山の南角であろう。列車が松井田駅を過ると雨が止んで雲間に妙義山の全景を望むことができた。横川駅を出てから隧道を通過すること幾度かわからないほどで、ようやく軽井沢の停車場に着いた。雨がしきりに降り止まない。車窓から赤帽を呼び行李を運ばせようとした時、三田英児が走ってきて私を迎えてくれた。これは私が上野を出発する時松莚君に電報を打ち旅館のことを依頼したからである。自動車で先に松莚氏が宿泊している鶴屋に行き、再び三田氏に案内されて軽井沢ホテルに入り旅支度を解いた。雨はまだ止まず、冷風が肌にしみこむ。窓を閉じひと眠りして車中の疲れをいやした。日が暮れるとたちまち冷気がいよいよ肌にしみる。「おとろへや家を出て知る山の秋、」「秋の日の髭剃る中に暮れにけり、」などと駄句が思いうかんだ時、食事の鐘が聞えたので衣服を着替えて食堂に行くと、旅行客が食卓に座っているがこれらを見るとたいていは西洋人で帝国劇場の歌劇興行の際に常に見かける者が四五人もいる。食事がちょうど終わった時松莚氏が令夫人と三田君を連れてやって来た。松莚子の案内でホテル門前の街路を歩いた。商店はみな西洋人を客とするもので骨董、仏器、錦絵を陳列する店が七八軒あるが、箱根の宮下のあたりの光景と異るところがない。汁粉屋で休憩し松莚子の旅館の門前で別れ帰って来てすぐに眠りについた。」 

荷風と左団次@軽井沢 写真裏両名署名 この日、荷風はいきなり朝はやく旅支度をし上野を発って軽井沢に行くが、友人の市川左団次(松莚)夫妻がここに避暑に来ていて、左団次と約束があったからであった。あわただしく出かけた様子だが、偏奇館近くの山形ホテルから昼食の弁当にサンドイッチを取り寄せたことなど準備がよい。

車窓からの風景の描写がなかなか好く、やなぎなどの緑の葉、はすやねむの木やさるすべりやむくげなどの夏の花、桑畑などの田園、農家のつくるごま、さつまいも、とうもろこしなどのことを書き連ね、川が激流し、雨が降ったり止んだり、妙義山の奇峰が見えたりなどの風景の変化が真に迫ってくる。こういった車窓からの風景の描写は荷風の得意とするところで、たとえば、昭和18年(1943)10月27日三鷹の禅林寺に行くために渋谷から吉祥寺まで電車に乗っているが、このときの描写も好い(以前の記事)。

一枚目は、このとき軽井沢で撮った荷風と左団次の写真である。二枚目は、両名が署名した写真の裏である。

左団次は、鶴屋に宿泊しているが、現在、旧軽井沢銀座の商店街の外れにあるつるや旅館と思われる(現代地図)。また、旧軽井沢銀座近くに旧軽井沢ホテルというのがあるが(現代地図)、ここが荷風が泊まった軽井沢ほてるであるかどうかちょっとわからない。日乗の記述と位置的にはよく合っている。
(続く) 

参考文献
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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