東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

軽井沢と荷風(6)

2014年09月17日 | 荷風

前回の記事に続く。軽井沢九日目の昭和2年(1927)8月19日の日乗は次のように短い。

「8月19日 快晴で、薄暑で昨日のようである。始めて浅間山を望むことができた。午後ホテルの庭に出て樹の下の椅子に座って物を書こうと試みたが眠気を催すばかりで書くことができない。たださわやかな風が快く感じるだけである。今日まで毎日筆を取ろうと思っても取ることができなかった。山間の空気に馴れないためである。」

この日も快晴、薄暑で、ようやく浅間山を望むことができた。しかし、軽井沢に滞在して9日にもなるのにとうとう筆を取る気になれなかった。

次の日、十日目(8月20日)は次のとおり(原文)。

『八月二十日 空晴れ空気は澄み渡りて四方の翠巒[すいらん]昨日にもまさりて更に鮮明となりぬ、空の色日の光東京にて見る十月の如し、旅館の後庭に出づるに今朝は浅間山の烟も見えたり、昼餉の頃松莚子門弟と共に来りて余の帰京を送らる、余是夕五時の汽車にて帰京する筈なればなり、邦枝氏別所温泉より電話にて安否を問はる、晡時茶を喫して将にホテルを出発せむとする時、北沢氏新橋の阿嬌こずゑを携へて来る、笑語すること少時にして車来りしかば東京の再会を約して停車場に赴く、熊の平横川の二駅を過る時空晴れて夕陽明かなりしかば、妙義の全景を心のゆくまゝに望み得たり、磯部駅にて日全く暮れたり、車中にて呉文炳氏に逢ふ、統計学の泰斗呉文聡先生の男なり、呉氏其同行の人板橋氏を紹介せらる、能く談じ能く笑ふ人なり、夜十時二十分上野に着す、』

私訳は次のとおり。

「8月20日 空は晴れ空気は澄みわたってまわりのみどり色の山々は昨日よりもさらに鮮明となった。空の色、日の光は東京の十月に見るようなものである。旅館の後庭に出ると今朝は浅間山のけむりも見えた。昼食の頃左団次が門弟とともに来て私の帰京を送ってくれる。私はこの夕方5時の汽車で帰京する予定であるからである。邦枝氏が別所温泉から電話で安否を問うてきた。夕方茶を飲んでちょうどホテルを出発しようとした時、北沢氏が新橋の美人こずゑを連れてやって来た。笑いながら話すとまもなく車が来たので東京での再会を約束して停車場に行った。熊の平、横川の二駅を過ぎる時、空が晴れて夕陽が明るいので、妙義山の全景を心のゆくままに望むことができた。磯部駅で日はまったく暮れた。車中で呉文炳氏に会ったが、統計学の大家である呉文聡先生の息子である。呉氏から同行の板橋氏を紹介されたが、よくしゃべりよく笑う人である。夜10時20分上野に着いた。」

この日、荷風は、軽井沢から帰京した。前々からの予定であったのか不明であるが、日乗には記述されていないので、唐突な感じがする。だが、上記のように、前日、今日まで毎日筆を取ろうと思っても取ることができなかったがこれは山間の空気に馴れないため、と記述しているが、これには、明日帰るのに、といった後悔の念が幾分か含まれていたのかもしれない。

その車中では、熊の平、横川の二駅を過ぎるとき妙義山の全景を充分に望むことができたと車窓からの風景を記している。

ここまで十日間の軽井沢滞在の日乗を原文または私訳で引用したが、やはり記述量は、東京にいるときよりもかなり増えている。非日常性の中にいたせいかもしれないが、これから荷風はかなり花鳥風月に関心を持っていたことがわかる。そのため知識も豊富である。現代人よりもずっと自然志向が強いと感じるが、荷風にとってそれは特別なことではなく、自然なことであった。
(続く)

参考文献
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 軽井沢と荷風(5) | トップ | 軽井沢と荷風(7) »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

荷風」カテゴリの最新記事