前回の記事に続く。軽井沢四日目の昭和2年(1927)8月14日の日乗は、以下のように、ちょっと長い。
「8月14日 朝7時に起きたが、たらいや口すすぎの水が清らかで冷たく骨にしみる。ダン夫妻が町の西にそびえる離山(はなれやま)の山麓に秋草がたくさん咲き乱れているので摘みにいきませんかという。自働車に同乗して行くと、この辺は見渡す限り平坦で高い木がない。低木雑草の間に、女郎花、吾亦紅(われもこう)、甘草(かんぞう)、擬宝珠(ぎぼうし)、藤袴(ふじばかま)、撫子(なでしこ)、野菊、山萩(やまはぎ)などが咲き乱れている。一人で離山の中腹まで登ると、みどりの山の峰が四方をぐるりと取りまき、軽井沢の人家が緑の樹々の間に見え隠れしている。この地は風なく空気が澄みわたって清らかであることは言うまでもない。低木の間で頬白(ほおじろ)がしきりに鳴く。時々、鶯(うぐいす)の遠くに近くに鳴く声が聞こえる。幽邃(ゆうすい)の様子はとても文章にできない。そもそもこの地の鶯は幽谷(ゆうこく)を出て高木にもどる心がなく深くその跡を雑木・野草の間に晦(くら)らます。これを現代の文士の虚名のためにしばられる者と比べれば、はるかに賢いと言わなければならない。私は鶯を聞いて遠慮する所は少しとする。正午にホテルに帰ったが、またもや下痢のため客室で横になった。小糸画伯が来た。ダン氏は妻と一緒に夕方五時の列車で帰京した。夕方左団次が書籍商竹田を伴ってやってきた。竹田は私が下痢であることを聞き町に行き懐炉を購入してくれた。夕食後庭に出ると月が明るい。旧暦七月の十六日の夜であろう。皆さんと一緒に街路を歩き、竹田が知っている一骨董商の店頭を過ぎようとすると、しらが頭の主人が出て来て次のようなことを言った。私の店は、この軽井沢にいることもう20年になり、むかし飯盛女が住んでいた家で、柱が太く、階段も広く、座敷の間取りもみな十畳ほどである。先生(荷風)が宿泊している軽井沢ホテルは、本陣の跡である。この地は明治40年頃水害にあい、この街路は濁流が氾濫して歩くことができず、近郊の別荘も流失するものが多く、大木もみな根こそぎ流された。同じ年、疫病が蔓延(まんえん)したため、以来、渓流で不浄のものを洗うことが厳禁された。」
ダン夫妻と一緒に車で離山(現代地図)のふもとまで行って眼にした数々の野草、一人で中腹まで登ったとき聞こえてきたほおじろ、うぐいすの鳴き声に感動している。そして、うぐいすにこと寄せて、虚名にしばられる現代文士の批判におよんでいる。荷風一流の比喩である。骨董商から聞いた明治40年頃の軽井沢の水害についても記している。
次の日(8月15日)の日乗は次のようにちょっと短い。
「8月15日 晴れて冷気はきのうのように厳しくはなく、寒暑計を見ると華氏74度(=摂氏23度)を示している。客舎の後庭に椅子を持ちだして楓(かえで)の樹の下で沢旭山の漫遊文章を読んだ。午後左団次とその門弟たちと街を歩き、一陶器店に入った。浅間焼を売っている。また、楽焼もある。その質は墨田の百花園で製造するものよりもやや硬い。左団次とともに、机上の皿を手にとって揮毫した。帰りにせり市を見たが、競売商の中には洋人もまじっていた。顧客は和洋人のほかに支那人も交じって大変混み合っていて、すこぶる珍しいながめであった。毎年8月末になると軽井沢の雑貨商はみな投売をするとのこと。」
この日も左団次と街を散歩している。左団次とは、歌舞伎役者の二世市川左団次(本名 高橋榮三)で、明治13年(1880)生まれ、荷風よりも一歳年少であった。断腸亭日乗に「松莚(子)」としてもよく登場するが、これは俳号である。荷風は帰朝後の明治42年(1909)に小山内薫の紹介で知りあって親しくなり、大正3年(1914)新橋の芸妓八重次と二回目の結婚をしたとき、左団次夫妻が媒酌人となっている。左団次の悩みは脚本不足と企画の枯渇で、そのため生まれたのが七草会というブレーンで、荷風も一員で左団次を支えたという。
(続く)
参考文献
「新版断腸亭日乗」(岩波書店)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
川本三郎「荷風と東京」(都市出版)
近藤富枝「荷風と左団次」(河出書房新社)