東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風とお歌(3)

2014年12月26日 | 荷風

お歌は、前回の記事のように、昭和三年(1928)四月十二日から三番町で待合「幾代」をはじめた。

昭和3年(1928)4月19日の「断腸亭日乗」に次の記述がある。

「四月十九日 晴れて風あり、午後小石川原町阿部病院に赴き電気治療を請ふ、帰途病人坂を下り安閑寺門前を左に曲りて指ケ谷町電車通に出づ、途次豆腐地蔵の門前を過ぐ、むかし見覚えたる門前の古碑依然として路傍に立ちたり、供物の豆腐をひさぐ豆腐屋も今猶在り、電車にて神保町に抵り書肆[店]松雲堂に憇ひ、主人と閑話す、琴峯詩訬七冊を購ふ、漫歩九段坂を上りお歌の家を訪ふ、是日待合開業弘めの当日にて楼上には遊客藝妓雑遝[雑踏]す、帳場の長火鉢にて夕餉を食し夜半車を倩[請]ひて家に帰る、」

荷風は、この日、午後小石川原町の阿部病院に行き、電気治療をしてもらった。現在の白山四丁目、小石川植物園の北東のあたりであろう。その帰り、病人坂を下るが、この坂は植物園内にあり、この東側に享保七年(1722)にできた施薬院があったからそう呼ばれた。鍋割坂、お薬園坂とも。坂下の安閑寺門前を左に曲りて指ケ谷町電車通に出たが、途中豆腐地蔵の門前を通り過ぎた。むかし見覚えのある門前の古碑が路傍に立っていた。供物の豆腐を売る豆腐屋が今もある。電車で神保町に至り松雲堂書店で休み、主人と話をし、琴峯詩訬七冊を購入した。ぶらぶらと歩き九段坂を上りお歌の家まで行った。この日は待合開業弘めの当日で、店は遊客や芸妓で混雑した。帳場の長火鉢で夕飯を食し、夜半車を頼み家に帰った。

同月30日には次の記述がある。

「四月三十日 晴れて風あり、三番町架設電話の事につき茅場町内海電話店を訪ふ、帰途太牙に憩ひ、薄暮三番町に赴く、招魂社昨日より祭礼にて人出おびたゝしく藝者家町は路傍に杭を立てゝ挑燈を挂け連ねたり、十一時過人稍散じたる頃お歌小久栄太郎等を伴ひて境内を歩む、天幕張りたる飲食店螺[栄螺]の壺焼を売るもの多く、その匂あたりに漲[みなぎ]りわたりたる、興業を終りたる見世物小屋の男女浴衣細帯にて外に出でつかれて物食へるさま哀れに見えたり、十二時過自働車にて帰る、空くもりて月おぼろなり、」

この日、荷風は、幾代の電話架設のことで茅場町の電話店に行き、その帰り銀座の太牙で憩い、薄暮れに三番町に行くと、昨日より招魂社(靖国神社)の祭礼で人出が多く、芸者家町では路傍に杭を立て提灯をかけ並べている。11時過ぎ人がやや散じたころ、お歌、小久、栄太郎等を伴って境内を歩いた。サザエの壺焼を売る天幕張りの飲食店が多く、その匂いがあたりにみなぎっている。興業を終えた見世物小屋の男女が浴衣細帯にて外に出て、つかれた様子で物を食べるさまが哀れに見えた。十二時過自働車にて帰ったが、空はくもって月がおぼろであった。

以上のように、荷風は、病院や書店に行き、古祠を訪ね、ぶらぶら歩き、銀座の知った店に行ったりして、気ままな生活を楽しんでいるが、この時期、一日の最後に三番町のお歌のところに立ち寄るのが日課となっている。近くの靖国神社で祭りがあると、お歌等を連れて散歩に出かけている。

5月8日には次のように幾代で起きた珍事が記されている。

「五月八日 細雨烟の如く新緑一段に濃なり、桐花開く、躑躅[つつじ]花また満開なり、夕餉の後三番町に徃く、お歌のはなしに昨夜来りし嫖客の中に小学校の教師と小石川原町辺なる某寺の住職と請負師との三人連あり、呑食ひして藝者を買ひ、今朝に至りて三人とも懐中無一物なれば、已むことを得ず教師と坊主二人を人質に引留め置き請負師一人を帰して金の才覚をなさしめたりと云ふ、恰天明時代の洒落本を読むが如きはなしなり、貧幸先生多佳余宇辞とか題せし洒落本に貧しき儒生と気負肌の男二人高輪の女郎屋に上りて翌朝銭なく雪降り出でたるにこまり果て店の男に傘を借りて帰る光景を描きしものあり、久しき以前一読したるものなれば大方忘れ居たりしに、お歌のはなしによりて偶然思浮べたるも亦可笑し、雨漸く烈しくなりしが幸に風なき故車を倩[請]ひて夜半家に帰る、」

この日、細雨が煙のようで新緑が一段と濃くなり、桐花が開き、ツツジの花も満開である。夕食の後三番町に行くと、お歌が話すことには、昨夜来た遊客の中に小学校の教師と小石川原町辺の某寺の住職と請負師との三人連れがあった。呑み食いして芸者を買い、今朝になって三人とも無一文であったことから、やむを得ず教師と坊主二人を人質に引き留めて置き請負師一人を帰して金の才覚をさせたと云う。あたかも天明時代の洒落本を読むような話しである。貧幸先生多佳余宇辞とか題する洒落本に貧しき儒生と気負肌の男二人が高輪の女郎屋に上りて翌朝銭なく雪が降り出したのに困り果てて店の男に傘を借りて帰る光景を描いたものがある。ずいぶん前に一読したものなので大方忘れていたが、お歌のはなしにより偶然思い浮かべたのもまた可笑しいことであった。雨が次第に激しくなったが、幸いに風がないので自働車を頼んで夜半に家に帰った。

さらに、次の年(1929)のことであるが、次の記述がある。

「三月廿七日 細雨糠の如し、雨中の梅花更に佳なり、大窪詩仏の年譜を編む、晡時中洲に徃く、帰途人形町にて偶然お歌に会ふ、市川団次郎待合の勘定百円ばかり支払はざるにより、督促のため辯護士を伴ひ明治座楽屋に赴きし帰りなりと云ふ、銀座通藻波に飰す、春雨夜に入りて猶歇まず、風また加はる、お歌自働車を倩[請]うて帰る、・・・」

この日、夕方中洲の病院に行き、その帰りに人形町で偶然お歌に会った。市川団次郎が待合の勘定百円ばかりを支払わないので、督促のため弁護士と一緒に明治座の楽屋に行った帰りと云うことであった。

幾代茶の間のお歌 お歌は、幾代茶の間で撮った左の写真のように、おとなしそうな感じで、また、荷風の見立てもそうであったが(以前の記事)、上述のように、三人連れの客が文無しであることがわかると、二人を人質にし一人を金策にだし、また、支払いが滞ると弁護士とともに督促に出かけている。こうした営業ぶりから、秋庭は、お歌はしっかり者だったと評しているが、荷風もちょっと意外な感じで同じ感想を抱いたかもしれない。

この年(1928)の年末に次の記述がある。

「十二月廿五日 ・・・、夕餉の後寒月を踏んで三番町に行く、今年は世間一帯不景気にて山の手の色町十年以来曾てなき程のさびしさなりと云ふ、冨士見町組合の待合茶屋売りものとなれりもの七八軒あり、戸をしめて貸家札を張れるもの二軒ほどありと云ふ、お歌の家は幸いにして毎夜嫖客二三人あり辛じてお茶ひかずどうやらかうやら年が越せさうに思はるゝ由なり、三更前車にて家に帰る、」

この日、夕食後寒月を踏んで三番町に行くと、今年は世間一帯が不景気でこの山の手の色町もこの十年でかつてない程のさびしさであるという。冨士見町組合の待合茶屋で売りに出ているものが七八軒、戸をしめて貸家札を張っているものが二軒ほどあるという。お歌の家は幸いにして毎夜客二三人ありかろうじてひまにならずどうやらこうやら年が越せそうであるとのことである。三更前車にて家に帰った。

前年(1927)三月に金融恐慌が勃発し、昭和三年(1928)は不景気が続いていたが、お歌の「幾代」はなんとか年を越せそうであった。
(続く)

参考文献
「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)

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