細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

学生による論文(84)「偉人の多い岩手の謎」 佐藤 鷹 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 08:33:06 | 教育のこと

「偉人の多い岩手の謎」 佐藤 鷹

 岩手という場所は不思議なほどに多くの偉人たちを世に送り出してきた。これは私が隣の宮城から出てきた身であるからなおさら、そのような憧憬の念に近いものを抱いてしまうのかもしれないが、それにしても明治期に差し掛かる頃から、新渡戸稲造や後藤新平をはじめ、原敬や斎藤実など4人もの内閣総理大臣、石川啄木や宮沢賢治ら文学人など錚々たる人物が、現在よりも随分と鄙びていたといっていい東北地方の一地域より溢出したのは、どうも偶然とは考えにくいように思う。岩手の持つこの力の源について考察したい。

 奥州藤原氏の三代にわたる栄華は見逃せない。中尊寺金色堂に見られるような平泉の黄金文化はその繁栄の様子を物語っていよう。良質な金山がこれを支えたのは間違いないはずである。しかし畜産もその栄華に貢献していることはあまり知られていない。西牛東馬と以前に述べたが、岩手は有名な馬の産地としても数えられ、中でも今の一関辺りは藤原秀衡が源義経に贈った幻の「太夫黒」の出生地といわれているくらいである。戦国の世にはここで産まれる馬も引く手数多だったはずだ。こうして金山と畜産により支えられた繁栄期に多くの寺が建立される過程で、平泉にやってきた職人や他の関係者によって教育活動が施されたのではなかろうか。この時の教育活動によりいくらか力を溜め込んだと言えなくもない。

 しかし戦乱の世が完全に終わって江戸時代が到来すると、当然馬の需要も尻すぼみになったうえ、数々の飢饉に見舞われるほどに気候も厳しくなり、繁栄は望めなくなった。馬を食肉として売り出せれば、落ち込んだ軍馬需要の分をいくらか回復できたのかもしれないが、肉食を禁忌としていた江戸時代ではそれは叶うはずもない。しかし1821年、岩手の地で興味深い事件が一つ起こった。相馬大作事件である。参勤交代を終えて江戸からの帰路についていた津軽藩主を南部藩士の相馬大作らが襲った。結局暗殺未遂に終わったのであったが、実はこの事件が吉田松陰や藤田東湖を刺激し、松陰は後に相馬大作をたたえる長歌を詠じているのである。彼が尊王攘夷思想の強い水戸学に傾倒していくことはよく知られている。

 そして江戸も終わりに差し掛かる1859年、盛岡藩のとある藩校で筆頭教授を務めることになるのが江幡五郎という人物なのだが、この人物がなんと、吉田松陰と交流を深くしていたのであった。松陰の考えに多く触れていたことだろう。要は岩手の藩校において、当時主流であった思想や考えが熱をもって伝えられていたということになる。そしてこの藩校は後に「作人館」と名を改めるのであるが、この作人館を出ることになるのが、あの新渡戸稲造や原敬なのである。

 奥州藤原氏繁栄の下地があり、江戸期のとある事件が吉田松陰や藤田東湖などの人物に影響を与えた。そして吉田松陰と深い交友のある江幡五郎が盛岡藩の藩校「作人館」の筆頭教授を務め、その藩校で新渡戸稲造や原敬が学ぶ。この奇跡とも言える巡り合わせが岩手の地で起こったのである。後藤新平らも彼らに学んだ部分も多いはずだ。かつては対蝦夷の最大拠点として胆沢城まで置かれ、いわば国の敵であった地が、ここまで多くの偉人を送り出し、我が国の発展に大きく寄与したことは非常に興味深い事実であった。

参考文献
三友写真部「盛岡の風景 吉田松陰と交流のあった「江幡五郎」という人」
https://mitomphoto.exblog.jp/23535939/

先端教育「藩校開設は遅れたものの、多くの明治の偉人や著名な蘭学者を輩出」
https://www.sentankyo.jp/articles/6a13584d-4f8c-4619-8136-5196b7ca46e5
(全て2021年12月18日閲覧)

司馬遼太郎「街道をゆく 陸奥のみち 肥薩のみち ほか」,朝日新聞社,1998 

 


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