細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

学生による論文(32) 「日本人の大衆性について」 渡 由貴(2022年度の「土木史と文明」の講義より)

2022-11-11 05:22:18 | 教育のこと

「日本人の大衆性について」 渡 由貴

 今回は、本授業で何度か話題に出てきた、人々の大衆性について考察を述べたい。

 普段生活をしていて、あまり自分の意志を通さない人や空気を読んで行動する人の多さにうんざりしてしまうことがある。そういう人の存在に初めて気がついたのは、中学生の頃だ。私は末っ子で、元から持ち合わせている目立ちたがり屋で負けず嫌いという性格から、周りに怯むことなく新しい環境に入っても常に自分のペースで生活していた。すると、私に常に付いて行動する子ができたのだ。彼女はクラスメイトで、一緒に行動する内に友達になった。出会ってから数ヶ月経って、彼女は私に対しては素直に考えを話してきたり、自分自身のことを自慢してきたりするような仲になったが、私以外の人に対しては、差し障りの無い態度で話を合わせている様だった。また、何をするにも私に合わせてくる子だった。ペアを組まなければならない時は必ず一緒、トイレに行くにも一緒、私が立候補した係にも一緒に立候補してくる、いつでもどこでも二人ペア、という状況だった。私は、他の友達とも仲良くなりたかったから毎回その子と一緒なのが嫌だったし、私には色々話すのに周りには空気を読んで合わせて行動する、という人に合わせて態度を変えるところが嫌だった。もっと、自分のやりたいことを堂々と一人でやってほしいし、私も自由に一人で行動したかった。

 彼女の姿を思い返してみて、彼女は常に周りの目を気にしており、唯一気の許せる私という友達には本音を話すが嫌われないようにどこへでも付いていっていたのだ、ということに気づいた。本当は意思があるのに、みんなから好かれようとするあまり、周りの空気に合わせて何事も進めていた。これが、まさに本講義で出てくる大衆的な人の行動であると思う。このような行動をする人は今までも何人も見てきて、その度に彼女らは私を含む意見をはっきり言うような人、すなわち非大衆性をもつ人に付いて、他の人たちの前では意見を合わせるのに、非大衆性をもつ私たちに代弁してほしいとでも言うかのように本音を話してきた。つまり、大衆性をもつ人が、自分は周りに嫌われないようにするために素直に意見を出したり行動したりすることはせず、非大衆性をもつ人に付き、非大衆性をもつ人の勇気、行動力、発言力を借りる、というような構図になっていると思う。大衆性をもつ人のこのような姿はどうも気の毒に思える。なぜなら、嫌われることに対して拒絶せず、少し勇気を出して、自分の本音に正直になり行動すれば、もっとのびのびと生きられるだろうと思うからだ。

 日本人は元々わびさび文化の影響で、自分の意見を暗喩したり全て完璧に言わなかったりする傾向ができ、そこから相手が言ってくれなかった部分の推測や場の空気を読んで合わせて行動することが始まったのだと思う。これは、アメリカへ留学した時にも常に感じていたことだった。アメリカ人は個人主義の人が多く、考えることや感じることを素直に表現したり、逆に相手の意見も素直に受け入れる印象があった。日本のように場の空気に従って行動したり相手の意見を推測したりするということは無く、ボディランゲージや直接の言葉を通してコミュニケーションを行なっていた。さらに、英語という言語自体も日本語と比べ回りくどい言い方ができず、直接的にしか表現できないことも、その要素になっていると考えられる。このような経験から、大衆性をもつ人の割合は特に日本人は高いと感じた。

 一人一人が非大衆的に行動すれば、無駄な推測をしたり空気を読んだりすることが無くなり、意見が活発に飛び合い、アクティブな行動があちらこちらで生まれ、より建設的な社会になると思う。そして人々は自分の本音に素直に従うことになるから、のびのびと生活できる。そんな社会を日本に望むばかりだ。


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