Me & Mr. Eric Benet

私とエリック・ベネイ

ルキノ・ヴィスコンティ「ヴェニスに死す」

2009-11-18 09:02:25 | 私の日々
音楽プロデューサー、坂田康太郎氏がテレビ放映の録画収録の休憩中に、
観客に向けて次のような話をした。

「ヴェニスに死す」、マーラーの曲のイメージが強いが、
メンデルスゾーン「メリーウィドーワルツ」が主人公と少年が初めて出会う場面に使われている。

「ベニスに死す」古いビデオを持っていたので、検証してみる。

夜明けの海に浮かぶ船。
シスレーの絵画のように美しい。
そこに流れるのは、マーラーの交響曲第5番 第4楽章。

落ち着かない様子の老教授、アッシェンバッハ。
トーマス・マンの原作では作家だが映画では作曲家となっている。
下船する時、浮いた化粧をした老人の醜悪な姿に彼が嫌悪する様子が描かれる。

ゴンドラでホテルへ。
水をかくオールの音しか聞こえない画面。
船頭の態度にアッシェンバッハのイライラはつのっていく。

ゴンドラが着くと、たくさんの荷物が船着場に降ろされる。
その様子は荷物ではなく、箪笥を抱えた引越しだ。
かつて特権階級の人々が船で旅をしていた時代。

そしてホテルへ入っていく時、かすかに「メリーウィドー」の調べが。
映像は過去に遡り、コンサート中に具合の悪くなったアッシェンバッハを囲む人々。
一人残ってアッシェンバッハに付き添うパートナー、アルフレットが奏でるピアノの調べは、
この作品を貫いているマーラーのアダージョ。

画面が変わり、ホテルでディナーの前にロビーで待つ人々の様子。
そこに流れる曲は、ひときわ大きなオーケストラの音でまた「メリーウィドー」

中学2年の時にこのオペラ、二期会版で観ていておぼろげだが、訳詩が記憶にある。
「高なる調べにいつか 心の悩みもとけて
言わねど知る恋心 思う一人には君よと」

これはタージオとの出会いを暗示するテーマとして使われているのだろうか。
ここで初めてアッシェンバッハは少年を見る。
家族に囲まれ愁いをおびた表情のタージオ。
アッシェンバッハは目が離せなくなってしまう。
タージオはダイニングルームへと向かう時、振り返りアッシェンバッハを見つめた。
そして食事中も視線を交える。

アッシェンバッハの追憶が始る。
かつて友アルフレットから(妻の存在もあるが彼はアッシェンバッハにとって
パートナーであり恋人にもとれる)
「究極の美とは何か?」
「それを芸術家に作り出すことができるのか?」
肯定するアッシェンバッハにアルフレットは「美は自然に生じるもの。努力で作り出せる物ではない。」

家族や友人、恋人達の夕食の一時、華やかなホテルで一人、毅然としてディナーをするアッシェンバッハ。

また過去へと場面は変わる。アルフレットとの対話。
「君の芸術は現実からの逃避だ。」
「美は感覚によるもの。」
「感覚だけでは美に達することはできない。」
「芸術と悪魔を同一視するな。」
「芸術には悪が必要だ」
「芸術はあいまいではいけない」
「音楽にはあいまいさが必要」

場面は変わり、終わりのない暑さにまいるアッシェンバッハ。
その中でも、スーツにタイ、ベストまで着ている。
その時代の人は、海岸でも正装。
海岸を歩くタージオをみつける。
友人と遊ぶタージオ。
母や叔母に溺愛されるタージオ。
憧憬の思いでみつめるだけでなく、アッシェンバッハは自分の少年時代に彼の姿を重ねているようだ。

エレベーターの中でタージオと他の子供達と一緒になりアッシェンバッハは居心地が悪い思いをする。
淀川長治氏は、この場面を「タージオに嘲笑された」と書いているが、
その道の経験のない私にはそこまで深く読み取れない。

「人間嫌い、人を避けて感情のない君には作曲ができない」
この男性、アルフレットはアッシェンバッハにとって恋人ともとれるが、
彼にとって影の部分、ダークサイド、ブラックボイス、心の中の声にもとれる。

不快な思いでいっぱいになったアッシェンバッハは、ミュンヘンへと発つ。
ホテルを離れる日にタージオとすれ違う。
タージオへの別れの言葉を一人つぶやく。
またマーラーの調べが。

手違いで荷物が別の目的地へと送られたことを知ると、嬉々としてアッシェンバッハは、リドへと戻る。
その表情とは裏腹に倒れこむ浮浪者の姿に不吉な影が。

窓から海辺のタージオの姿を見つめるアッシェンバッハ。
また過去の記憶へといざなう。
妻と幼い娘と幸福な日々を過ごす若き日のアッシェンバッハ。

海岸で遊ぶタージオの様子に目を細めながら筆を進めるアッシェンバッハ。
海の向うに大きな太陽が沈んでいく。
美しい夕暮れの海岸。

手の届く所を走り抜けるタージオ。
それに対してアッシェンバッハの足取りは重くなっていく。
室内のピアノで「エリーゼのために」を片手で弾くタージオ。
「なぜこの町に起きている事を皆隠すのか?」と支配人を詰問する。
メロディーは続くがタージオの姿はない。
音だけがアッシェンバッハのかつての記憶を呼び起こしていく。
かつて訪れた娼館、この曲を爪弾く娼婦の姿に現金を置き立ち去る。

夜の散歩に出てタージオとすれ違うアッシェンバッハ。
タージオは彼に気づいて微笑む。
その微笑みは単なる彼を認識しているという挨拶なのか。
それとも彼の気持ちまで知り尽くしての奢りなのか。
アッシェンバッハはその微笑に怒りを覚える。

教会での葬儀の後、タージオをまた追う。
廃墟と化しているヴェニスの町、そして白と黒の服装で追いかけるアッシェンバッハの
速度に合わせて、見失われないように歩くタージオ。
街を覆う暗い影はますます色濃くなる。

また若き日のアッシェンバッハの映像。
幼い娘を失くしたということが暗示される。

髭と髪の手入れのため、床屋に入ると、「若返り」を進められる。
髪は染められ、メイクまで施される。
そして、ピンクのバラをスーツの胸に。
かつてアッシェンバッハが嫌悪した冒頭の老人の姿そのまま。

また過去が交差する。
指揮をしたコンサートでブーイングを受け、気分が悪くなったアッシェンバッハ。
いたわる妻、しかしいつもの如く付き添う友人からは「君にはもはや何もない、
見せ掛けのみだ。ただの老人だ」と言われる。

タージオの一家がホテルを発つ事になる。
歩くのもままならなくなったアッシェンバッハは海岸で椅子に座る。
目の前ではタージオが見知らぬ少年から痛めつけられていた。
なすすべもなく、それを見つめるアッシェンバッハ。
傷ついたタージオが海に向かい佇む。
マーラーのテーマが流れる。
そのままアッシェンバッハは息を引取る。
タージオに向かって手を伸ばしながら。

誰もいない海岸、アッシェンバッハの亡骸が運びされていく。

久々にこの映画をじっくりと観た。
タージオはアッシェンバッハにとって美、芸術の象徴であり、
時折登場する友人は、アッシェンバッハの影の存在、心の声だった、
すべては幻、アッシェンバッハの幻想だったともとれる。
ルキノ・ビスコンティー監督が、ゲイとしての自分をこの映画に投影させたとは思っていたが、
映画監督、芸術家としての憂いをもアッシェンバッハを通して描かれていた。

「ヴェニスに死す」を最初に観たのは中学三年くらいだった。
全くわけのわからない映画だと思った。
年を重ねて若き日に難解だったものが理解できるようになるのも悪くはない。

Death in Venice (Muerte en Venecia)


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