行雲流水

阿島征夫、一生活者として、自由に現代の世相を評す。時には旅の記録や郷土東京の郊外昭島を紹介する。

浅利慶太さんの思い出

2018-07-20 21:08:57 | 芸術

四季を創設した浅利慶太さんが亡くなった。日本にミュージカルを根付かした功績は大だ。私はミュージカルには縁遠かったが、たまたま姪の久居史子が四季の女優になったおかげで何回かゲネプロに招待され、ミュージカルに接し、その素晴らしさに何回か感動した。その度に浅利さんにお目にかかったが、姪よりものすごく厳しくゲネプロでダメ出しをされると、アウトになると、聞いていたので遠くから眺めるだけだった。

ところが、2001年国際金属労連の中央委員会がベニスで開催され、当時の金属労協議長草野忠義さんと事務局長の私が出席するべく、ミラノ行きの便に乗り込んだところ、草野さんの隣の席に浅利さんが座っていた。草野さんは日産労連の会長時代、日産労連が毎年四季の講演を借り切り、障害者を招待していたことから旧知の間で、これはこれはということになり、私も紹介して戴いた。

浅利さんはもう既に出発前の一時、燗酒をちびりちびりでご機嫌だった。日本酒をこよなく愛されているとお見受けした。乾き物のおつまみを大量に買いこまれ、早速こちらもご相伴にあずかった。これからミラノのスカラ座でお仕事ということで、秘書も連れず一人旅のようだった。四季の苦難の時代、日産労連の借り切り講演は劇団経営にさぞ助かったことだろう。現在の四季では切符をとるのも大変だが、昔の恩を忘れず、気軽に接して戴ける雰囲気は当に大物だ。

今春、「ノートルダムの鐘」横浜講演のゲネプロでは、既に四季を引かれ浅利さんにはお目にかかれなかった。後継者をきちんと育成されたので、四季は益々発展するだろう。

合掌


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