総合漢方にんぷ薬・総合漢方育児薬

~頭を使ってではなく、カラダ(感性)で子育てしてみませんか~

ついに・・・・・。

2015年02月25日 | エッセー
 ついに、やって来た。
 何が?
 母が、認知症の階段を昇り始めた。
 もちろん、本人は、物忘れがひどくなったという認識はある。でも、本人は、それ以上でもそれ以下でもない、老化現象の範囲内だと思っていると思う。
 でも、でも、娘から見たら、性格が寛容の反対の方向に向き始めたなって、残念な気持ちでいっぱい。
 母を見ていて、あーはー、認知症って、物忘れがひどくなることから始まるのではないなぁって思った。物忘れは、私だって非常に厳しい立ち位置にいる。問題は、物忘れ対策をしようとするかしないか…だということが、認知症になるか老化現象レベルにとどまるかのカギを握っていると確信した。
 3年前、父が亡くなってから、母は強くなった・・・と誤解していた。
 それまでの母は、何かあるとすぐしゅんとしてうじうじしていた。イヤなことを言われても、受け流すこともできず、言い返すこともできず、夜、眠れないというような母だった。つまり、立ち向かうこともしなければ、その出来事を通して、それを肥やしにして、物の見方を変えるというようなこともしなかった。ただ、うじうじしていただけだった。
 そう、つまり、自分を変えるということはしないくせに、いつも、同じパターンでしゅんとなって・・・・。私が、娘的に文句を言っても、しゅんとするだけ・・・・。これには、参った。言い返してくれれば、まだ、会話のキャッチボールになるのに、言い返すこともせず、しゅんと暗くなるもんだから、『それ以上、何も言えないじゃないか…。卑怯だよ。』って感じだった。
 それが、父が亡くなって、父という防風林がなくなって、世間の風当たりをまともに受けるようになったら、少しずつ、言い返せるようになった。これは、実に喜ばしいことと・・だと勘違いして、喜んでいた。
 ところが、どっこい・・だ。
 なんだかんだ言って、母は、自分を変えるということはしない人だったのだ。
 つまり、素直さがない。謙虚さがない。
 物忘れがひどくなるのは仕方ない。
 でも、ひどくなるならひどくなるで、どうしたら、それをカバーできるかという工夫をしようとしない。
 メモしたら・・・と思うけれど、そのメモを探すのに一苦労する。そうこうしているうちに心の中が荒れてくるのかなぁ。開き直ってくる。忘れないようにする努力をやめてしまった感がある。
 母葉は、一見、とっても、謙虚な人に、人当たりの良い人に見えるけれど、実は、全然、謙虚じゃない。ただ、人から悪口を言われないために、装っていただけで・・・・。自分のこだわりへの執着がとても強い人だった。
 
 そんな、一見、穏やかに見えるけれど、実は、ぶりっこしている母が、ぶりっこをやめた・・・。父が亡くなってから、世間の悪口の害から身を守るために。確かに、強くなった。今まで、母を苛めていたおばあちゃんたちに向かって行く力をゲットした。以前ほど、しゅんとならなくなった。
 よかった、よかったと思っていた。
 でも、言い返すパワーを得た母は、柔軟性というか心の遊びというかしなやかさというような優しさからどんどんかけ離れていく。開き直って、攻撃的な物言いにひやひやする。自己主張がへたくそなのだ。
 年を重ねるという言葉が、もはや、死語になりそうな勢いで・・・・。
 認知症になってしまうと、年を素敵に重ねるのではなく、今までブリッコしていた部分が剥がされていく。 
 ある時、攻撃的で鬼のような顔に豹変する母に唖然とした。その時は、まだ、物忘れはひどくなったけれど老化現象だと思っていた。認知症の階段を昇り始めているという危機感をこの時、はっきりと認識した。
 異変を感じた瞬間だった。
 あ~~~、母は、世間に対して強くなったのではなく、化けの皮が剥がれただけなんだ・・・。

 かわいい認知症おばあちゃんになりたい。

 そのためには、どうしたらいいのだろう?
 マジ、自分の老後を考えてしまう今日この頃。
 同僚の親たちも似たりよったりで、みんなで『長生きしたくないね。70代後半くらいがいいね。』と嘆いている。75歳を過ぎるころから、異変が始まる。

 母の認知症が現実味を帯びできて、さっそく、認知症を本気で学び始めた。
 母に認知症の階段をできるだけゆっくりのぼてもらうためにはどうしたらいいか。そして、自分が認知症にならないためには、もしくは、認知症になっても、『ありがとう』を連発するようなかわいい認知症おばあちゃんになるためにはどうしたらいいか。

 認知症と言うと、物忘れがひどくなると連想しちゃうけれど、実は、物忘れの前に、課題や問題が生じたときにどう対応するかという置かれた状況で最善とは何かを判断し、効率よく効果的に対処できる能力が落ちてくるのだそう。

 母は、問題が起きると、大きな声で反応し、そして、ただただ心配して眠れない日々を過ごし、それでおしまい・・・というようなタイプの人だった。オロオロ人。
 もともと、脳のそういう部分を使わない人だったところに、正社員として会社で働くという体験もなかったので、仕事上でもそういう能力が鍛えられなかった。家計も父親がやりくりしていたし・・・。
 よって、今更、その部分を活性化させようとしても、困難に近い。
 別な手段で、脳をどう活性化させるか・・・・・・。

 
 ためしてがってん編集の本を読んでいたら、一つ、大きな収穫があった。
 知らなかった。
 アルツハイマー型の認知症は、認知症の45%を占めるのだという。
 そして、委縮する脳は、アミロイドというタンパク質が分解されないで脳に蓄積された結果だという。
 そして、そして、アミロイドを分解する酵素とインシュリンを分解する酵素が同じだという衝撃。

 インシュリンをいっぱい使うような食生活をしてしまうと、使用済みインシュリンを分解するためにその酵素が使われてしまい、アミロイドを分解できなくなってしまい、それが、脳にどんどん蓄積された結果。脳が委縮してアルツハイマーになるのだそう。

 血糖値を一気にあげるジュースこそ、認知症への道、まっしぐら誘惑食品なのだ。

 そんな話を、10歳の息子に夜、電気を消して、いろいろ話すタイムのときにしてみたら、意外な反応に、やったぜ!
 『じゃぁ、僕、もう、今から、ジュースは飲まない。』だって。

 やったー。
 彼は、ジュース大好き、お菓子大好きっ子で、虫歯になりやすいから困っていた。今も、治療中だけど、治療中にもかかわらず、虫歯が増えていくという不可解な現象がおきてしまい、いつまでもたっても治療中からぬけだせずにいた。仕事している私としては、歯医者さん通いも大変。幸い、医療費が月800円ですむのがありがたい。これで、3割自己負担だったら、破産する。
 だから、極力、ジュースは買わないようにしていた。

 なのに、このインシュリンとアミロイドの分解酵素が同じで、インシュリンを優先して分解する特性があるということ、だから、インシュリンがドバっと出るようなジュースや甘いものを食べ続けると、認知症になるというお話を、一度しただけで、効果覿面。

 週末、子供向けなローカル映画が、地元の文化センターであった。
 友達と歩いて帰ってきたようだった。帰ってきて、開口一番『映画が終わって、すっごく喉が渇いたんだ。それで、ジュースを買おうと思ったんだけど、ほら、』と言いつつ、お茶のペットボトルをうれしそうに見せてくれた。

 10歳の子どもにも、わかるんだって感動した
 もちろん、彼の周りに、心源性脳卒中による認知障害になった義理父とやばいかんじの義理母と私の母という存在との実体験があればこそ・・・・・。認知症という病気を彼は知っている。だから、アミロイドとインシュリンを分解する酵素が同じである。インシュリン分解に浪費したらアミロイドが蓄積する。その結果、脳が縮む・・・という知識も、真綿が水を吸収するようにすんなり理解できた。
 知るということは、大切だと思った。
 そして、教えるということも大切。

 ところで、母を見ていて、やばいと感じた・・これはおかしいなと感じたのは、物忘れジャンルではなかった。
 今まで何かあるとしゅんとなっていた母が、最近、自己主張しはじめたな、いい傾向だと思っていたら、調度いいを通り越して、歯止めが利かなくなったと感じた瞬間、ヤバいと感じた。
 そして、がんこになった。自分の置かれた状況で自分のこだわりとの調和が取れなくなった。
 この2点で、これは、単なる老化現象の悪化ではない、認知症?って疑問がよぎった。

 私たちは、職場で、前頭前野を使う訓練をさせていただいているんだなぁってしみじみ、職場があるという。つまり、社会とつながっているということに感謝。

 おかれた環境で、最善を尽す。できるだけ、みんなと楽しく・・・。

 常に、そんな気持ちで、朝、職場に向かおうと思った。
 いろいろある。
 でも、にもかかわらず、職場で太陽にならんとしよう・・・。そう強く思った。

 大分県の安心院という町では、自分たちで企画して自分たちで楽しむ会を結成したところ、認知症になる方が減ったという。みんなで集まる日の企画を自分たちで全てする。サテライトみたいに、私作る人、僕食べる人というような受け身ではなく、自分たちで何をするかを決める、お昼御飯も何を作るかを決めて、自分たちで料理して、自分たちで片づけて・・・・というようなスタンスだという。
 みんなであれこれ話し合って、より楽しいものにせんとする時、きっと、前頭前野が活発に使われて、認知症の予防になるのだと思う。
 人生、死ぬまで受身はいけない。依存と自立の調和が大事。
 福祉の基本は、相手の自立を助けることであって、依存心を膨らませることではないと思う。

 小さい頃から、みんなで知恵を出し合えば、そこに喜びが湧き出てくる・・・というような、そんな教育を受けていれば、自然と前頭前野が鍛えられ、それは、大人になっても、高齢になっても残るんじゃないかなぁ。

 規則とかルールを守ることばっかりに、ちゃんとできることばっかりに、頭を使っていると、前頭前野は鍛えられないかも。

 安心院の取り組みが成功したのは、きっと、それを企画したファシリテーターの力量によるところが大きいと想像する。みんなで何かをやろうとすると、不協和音は必ずと言っていいほど発生する。というか、それがふつう。その不協和音を全部出させて、『あ~、みんな、いろんな考えがあるんだなぁ。人それぞれなんだ。自分の考えが正しいと信じていたけれど、自分の考えが正しいのではなく、ただ、自分の考えであるだけだったんだ。みな、それぞれが、それぞれの理由により、自分の考えに至っているんだ。』というような見解に到達できるような配慮のできる支援者が必須だと思う。
 でないと、言いたいことをいえない人たちは、不満を溜めていき、結局、最後は仲間割れ的な状況になってしまう。

 トヨタ方式・・・何かトラブルが生じると、その原因は追究するけれど、その原因を責めないで、その原因を回避する知恵をみんなで探す。
 所詮、人のすることなので、機会みたいに100%完璧なミスのない仕事なんてありえないということを前提に、その人が介入する部分のミスを何でカバーするかという視点で仲間が知恵を出し合う・・・土壌が、今のトヨタの繁栄の原点なのかもしれない。

 ミスしたくない・迷惑かけたくない・・・そんな空気を反転する力が、今の時代に求められているような気がする。

 人間に

 
 


 

コメント
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