一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

狩猟時代の脳

2008年12月15日 | Weblog
 猫を見てると人間ほど無駄な動きはしません。

 ある本に私たちの脳は狩猟時代のままだと書いてありました。そうだとすれば猫のように敵に襲われないように獲物を逃がさないように目の前や回りの気配をジーッと感じて、動くときは獲物をとらえるように行動するのが生きものとしての人間の基本ということになります。

 獲物をとらえることは、私たちの心臓が動いていると同じように何かにつきうごかされての行動です。猫が何かに注意を向けて身体が勝手に動き始めます。

 その注意を向ける何かが狩猟時代の脳基準で選んだ一番適切なことです。

 ここに猫が人間ほど無駄な動きをしない理由があるような気がします。「正法眼蔵 坐禅箴」のなかにも、「事ニ触レズシテ知リ、縁に対セズシテ照ラス」という言葉があります。坐禅中にいろいろな事が聞こえたり見えたり思いが浮かんできたりしますが、聞こえるまま見えるまま浮かぶままにします。これは狩猟時代の脳の動き方を再確認しているのではないかと思えます。人間のように見えたもの聞こえたことアタマに浮かんだ思いにランダムに反応していては、敵にすきをみせてしまうし、獲物も逃してしまうでしょう。

 仏教では「外界と内心が連動するような意識活動ではない。」と言われています。眼の前のことはうたかただと思って、内面の寂静だけを求めなさい、というような現実離れのしたものではなく、外界の世界はしっかり見ているけれども、行動するのは狩猟時代の脳が今ここでこれぞと判断したことだけではないかと思うのです。

 私たちは猫のように一日中草むらにかくれてジーッと獲物をねらってるというわけにはいかないので、日常生活を回していかなければなりません。でも坐禅によって狩猟時代の脳の動き方を再確認して、その感覚が身体で何となくわかってくるような気がします。その感覚基準で行動すれば、猫のように無駄な動きをしなくてすむように思えるのです。