一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

般若心経(遠離〔一切〕転倒夢想。)

2008年12月06日 | Weblog
 もしうちの猫が外猫だったら、ちょっとでも帰ってこなかったら、心配するだろうし、家猫でも生き物をかっていると、心配の種はつきません。

 何かを大切に思うということは、裏腹に心配がつきまとうということでしょう。

 でもときどき心配にとらわれて心配とともに暗い海の底に沈んでしまうような気がします。
 
 最近仏教研究者が次のように言っていました。忍ぶの忍は昔は忍識の忍だったそうです。今の認識です。忍耐と認識はだぶっているのです。忍耐は現実の法則を認識することではじめて忍耐できるのだそうです。その心配を耐えられるようにしてくれるのは、智慧だというのです。
 
 私たちは、その心配に耐えられないと思うから目の前のことを歪めてしまいます。現実をありのままにみないで、自分の都合のいいように解釈したり、逆に悪く解釈したりします。歪めてみるから、ますます事態はこんがらがって我慢しなくてもいいことまで、我慢しなくてはいけなくなり、不安や恐怖や恨みや怒りを増やしていきます。

 私は回りをみていると、我慢しなくてもいいことを忍耐し、忍耐すべきところは忍耐してないというように転倒してるようにみえます。我慢しなくてもいいことを忍耐していても、それは耐えられないことです。

 智慧というのは、まず全体をとらえることです。猫のようにジーッとしていることです。猫だったら餌をとらえられる程度、敵から身を守られる程度にジーッとしています。

 私にとって、智慧にのっとっていけば心配は耐えられるというのは、救いです。心配はなくならなくても、日常生活を智慧にそってまわしていくなかで、救いは生まれてくることのような気がします。心配しなくてもいいように、猫も飼わない、人とも近い距離をとらないようにするよりは、そこから発生する心配はひきうけて、死ぬまで泣き続けてもいいから、縁があっての関係を大切にしていきたいと思います。