一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

クリスマス

2008年12月26日 | Weblog
 巷ではクリスマスといってなにかそわそわしています。私もクリスマスは誰かとディナーでもしなくては、とつい思ってしまいます。

 巷でそわそわしだしだすと、私は良寛さんのこの歌が浮かんできます。

 遍界歳暮男女鬧
 唯有草庵正安然
 不知何以答仏恩
 一炉香煙一坐禅
 
 あたかも年の暮であります
 俗世間では何処へ参りましても
 おとこ おみなとも忙しく働いております
 ところが浮世を捨てた愚僧はと申しますと
 御覧のように庵の中で安然たるものがあります
 これはまことに以て有難いことで
 広大無辺の仏恩に
 何と答えたらよいでありましょう
 香炉に香をくべ
 心気を静めて 打坐三昧
 これしかございませぬ
 本当にこれでございます(注)
 
 
 上記のしみじみとした歌を私の無骨な解釈で申し訳ないのですが、私はこの歌を狩猟時代のDNAの観点からみてしまいます。仏教は身心一如といって身体からの影響は避けられない、DNAからの影響は避けられないと思っています。DNAからいって感覚器官の六官でとらえそのとらえたものを筋肉をつかって出力することが基本であるような気がするので、私は最近まず感覚器官の六官でとらえ筋肉をつかって行動するようにしています。

 みんながクリスマスで楽しそうにしているから私も友達に電話してディナーにでも行こう、ではなくて、まず眼の前のことを六官でとらえます。そして猫がしっこしたら、砂を取ったり、汚れた茶碗があったら洗ったりします。

 前だったら、寂しい、ツマラナイと、本屋に行こうとかパソコンにむかうとかしたものですが、今はとにかく目の前のことをみています。

 なにも変化がないときは、ジーッと良寛さんのようにしみじみしています。

 こう思えるようになったのは、私たちのDNAは狩猟時代のままだということに気がついたからなのです。私たちは敵に襲われないように獲物を逃がさないようにジーッと目の前の気配を感じられる状態にあるときが一番安心するようです。これが頭の考えがはいると感覚器官の眼耳鼻口舌心意は考えが入った分鈍くなってしまうのです。感覚器官が鈍くなってしまうと、敵に襲われてしまうし、獲物を逃がしてしまうので不安になるようにつくられているようです。

 だから、クリスマスだろうが正月だろうが連休だろうが、私は目の前のことをジーッとみて、猫がしっこをしたら猫砂をとりかえていきたい。

 
森山隆平「良寛絶句」大陸書房 267~268頁