一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

般若心経(不垢不浄)

2008年10月11日 | Weblog
 私は坐禅以上の清浄さはなく、坐禅以下の不浄さはない、ととらえています。

 養老孟氏が「人間の『「入力』はすべて知覚、つまり五感からです。『出力』は筋肉だけなんです。」(注)と言っていましたが、坐禅も当にジーッと坐って五感で外の世界をとらえ,坐相を保とうと筋肉をつかっているだけです。

 坐禅をしているあいだに、いろいろな思いや感情が浮かんできますが、それを追わず五感で外の世界をとらえています。坐禅をしているときは考えを振り払おうとしなくても浮かんできたなと気がつけば自然に考えはおちます。またすぐ考えは浮かんできますが、その繰り返しです。坐禅のあいだ何も考えが浮かばないということは生きている人間にはありえません。

 では浮かんできた考えを追わなかったら、情報がなかったら生活していけないだろうとなりますが、人の言葉は情報としてはちゃんと身体のどこかにストックされていると思います。自分が意識するしないにかかわらずストックされています。そして外の世界を五感でとらえたときに、自動的に必要な情報はストックされたなかから選ばれてでてくるはずなのです。

 だれかに「バカッ」と言われたとします。そうすると私たちはもう「バカッ」と言われたほうに関心が集中して外の世界なんかぜんぜん眼中になくなります。でも「バカッ」と言われようが何と言われようが、外の世界を感じるほうを優先します。「空」の世界ではあくまでも『入力』は五感なのです。「バカッ」と言われたことは、自分からどうにかしようとしなくても自動的に自分の身体のストックにはいっています。その情報は消化され自動的に必要なときに必要な行動となって出てくるはずです。

 「空」の世界ではあくまでも『入力』は五感なのです。言葉で曇ってしまっていない五感です。そして『出力』は筋肉です。身体を動かしたり、顔の表情をつくったり、姿勢を保つことです。

 ここで大切なのは、『入力』したものを『出力』することです。五感で『入力』したものを『出力』しなくては身心が汚れてしまいます。五感でとらえても、筋肉を動かさないと汚れてしまいます。ペルソナみたいに仮面をかぶって無表情をしていてはストレスがたまります。テレビをみているだけでもストレスがたまります。

 逆に、『入力』なしの『出力』だけでも身心が汚れます。目に見えたもの等五感で感じたものを無視して、かってに頭でこうしようとして行動することなどです。

 「空」の「不垢不浄」は神様みたいな現実離れの清浄さではなく、目の前の現実と自分の身体でもって『入力』と『出力』をきちんとして汚れないないようにすることだと思います。

注:南澤道人「道元禅を生きる」四季社 20頁