一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

般若心経(照見五蘊皆空 4)

2008年08月26日 | Weblog
 「空」の本当の自分のピースではない自分で勝手につくったピースの具体的な例を挙げていきたいと思います。

1.自分のエゴの好き嫌いで行動することです。

  好き嫌いを突き詰めていくと、最終的には若さは好き、老いや死は嫌いになるのではないでしょうか。好き嫌い基準で生きていくことは、闇の部分を見ないで、避けていくことになります。でも最終的な老いや死からは誰も避けることはできません。避けてとおれない闇の部分も共存しているのが現実です。でも、闇の部分をみることは思いで受けいれようとしても無理です。生きたい生存本能をもちながら、必ず死なねばならぬ必然性をもつ絶対矛盾は思いでは絶対受けいれられません。だから闇の部分、死を乗り越えるためには、思いや観念でどうにか造作しようとしても無理なのです。


2.何かを期待して行動することです。

 私たちは自分の期待したように事が運ばない、相手が動いてくれないことに対しての怒りや不快感にふりまわされています。
 小池龍之介「『自分』から自由になる沈黙入門」によれば、
  『人の心てふものは、身近な人に対するほど期待も要求も強くなるものなり。ドウシテコレヲシテクレナイノ?コレクライシテクレテアタリマエデショ?・・・・・・・・・・そして要求や期待といった「欲」が満たされないと、当然のように不満が留まって相手への怒りや不快感が負のオーラとして発せられ、お互いの糸がこんがらがってゆくようにおもわれます。』(注1)

 期待をもてば、どうしても満たされないと不満が溜まり、相手への怒りや不快感が負のオーラとして発せられます。でも期待というのは、頭で想像しただけで、想像したとおりになるかならないかは、現実の世界ではどうでもいいことで、現実の世界というのは目の前の事実だけです。


3.価値観で行動することです。

 価値観が違うからあの人とはつきあえない、とか価値観の相違で離婚した、とか価値観はある程度自分のやっていることの正当性になります。でも価値観てそんなに正当性があるの、と疑問になります。人間は誰かと一緒にいても、自分は黙って真理を実行するだけです。価値観というのは空に浮かんでる雲みたいなものです。価値観からでる自分のプライドであったり、価値観にあわないことをやってしまった自責の念であったり、価値観にあわないものに対する説教であったり、価値観に合わせようとする一生懸命であったり、価値観から生まれる雲はいろいろです。でも雲のその奥に青い空があります。

 前永平寺住職の宮崎禅師が次のように言っておられます。

「自然は立派やね。私は日記をつけておるが、何月何日に花が咲いた。何月何日に虫が鳴いた。ほとんど違わない。規則正しい。そういうのが法だ。法にかなったのが大自然だ。法にかなっておる。だから、自然の法則をまねて人間が暮らす。人間の欲望に従っては、迷いの世界だ。人情によって曲げたり縮めたりできないもの、人間が感情によって勝手に変えられない自然。そういう生活をして、生きておられたらいいね。」(注2)

 「朝になれば日が昇り、夕方になると日が沈むのと同じで、朝になったらちゃんと起きて、まず坐禅をする。それが当たり前のことで、それを崩すことは、どうにも不自然なんやと思うんや。」(注3)

 太陽は、感情や欲で動きません。一年中決まった時間に決まった道を動きます。私たちは太陽に影響されています。そうすれば私たちも太陽にしたがって日々の生活のリズムを崩してはいけないような気がします。

 太陽には価値観なんてありません。法にしたがうというのは、価値観よりも太陽にしたがうということではないでしょうか。

注1:小池龍之介「「自分」から自由になる沈黙入門」幻冬社 120頁
注2:石川昌孝「坐禅をすれば善き人となる」講談社 232頁
注3:同上   228頁
 

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