一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

般若心経(照見五蘊皆空 2)

2008年08月17日 | Weblog
 私は「空」になれない条件がいくつかあると思っています。

 一つはジグソーパズルのピースを全部使わないで一部のピースだけつかって組み立てて作った空いている部分に自分のピースをはめ込もうとすることです。

 全部のピースをつかって組み立てて作ったパズルは、人間に置き換えると身心の働きが十全の状態です。でも一部のピースだけをつかって組み立てて作ったパズルは十全の何割かの働きしかありません。一部だけつかって組み立てて作ったパズルの例をあげてみたいと思います。

 楽しいこと、刺激のあることを泥棒のように物色して暮らすことです。いろいろな感覚的なものの楽しみを追い求め、それに引きずり廻されることです。

 現実はもの足りない、つまらないもので、なにかもっと楽しいこと、刺激的なものを探してなくてはいけないものなのでしょうか。「正法眼蔵」では、現実は、目の前にみえる世界は、静寂であり、恵み深いものであるとしていて、目の前の世界を尊敬の念をもって、最高の教えとして受けとめています。

 先日テレビで世界一周する豪華客船の番組を見ていて、これだけ刺激を求める必要があるのだろうかと疑問をもってしまいました。ひとときも退屈のしないような施設、寄港先での刺激等です。目の前の世界をつまらないのでもっと楽しいものにしようとするよりも、十分満ち足りた世界ととらえるのが仏教です。

 だから猫はじーっとしています。目の前の世界に絶対の信頼をおいて自分から刺激的なもの、楽しいことを探そうとはしていません。良寛さんもそうです。人里離れたあばら屋で一人で托鉢だけをして暮らしました。彼は寺の住職になろうと望めばなれただろうし、書を売ればいくらでも高く売れたのに、あえて托鉢だけで暮らしました。そのような生活を望んだ理由は、やはり目の前の世界を十分満ち足りた世界ととらえ、それ以上の刺激を求めず、見えるままにし、聞こえるままにし、思うままにしたかったからだと思います。次ぎの歌は、刺激をもとめない平安な気持をよくあらわしているのではないでしょうか。

 木の葉散る森の下屋は聞き分かぬ
    時雨する日も時雨せぬ日も
   (木の葉が散ってくる森陰の草庵にこもっていると、時雨の降る日も降らない日も    同じ音がして、聞き分かけることができない。)(注1)  
 どんなに寂しくても、寂しさから逃げないのは、いま自分が身をおいている目の前の世界を十分満ち足りた世界をとらえているからだと思います。

 目の前の世界に満足せず、楽しいこと、刺激的なことを追い求めてもどこに満足点を定めるのか難しいと思います。どんなに刺激を求めても楽しいことを追い求めてもきりがないのではないでしょうか。仏教に‘六道輪廻(りくどうりんね)’という考え方があります。‘地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上’の六つを指します。人間が仏教的真理を体得しない場合、因果関係の連鎖に操られて、この六つの境涯を経廻ると主張されます。地獄とはこの世が思い通りにならない苦しみの境涯をいう。そしてこの苦しみの境涯にあって欲求の充たされないままに生活していくことにより、欲求はさらに高まり病的に昂進する。この欲求が病的に昂進した状態、これが餓鬼に境涯である。かくて餓鬼は充たされぬ欲求の充足に狂弄する。これが畜生の境涯である。そしてこの畜生の境涯における欲求の無秩序な充足は人間の真心にも決してよい影響は与えず、身心の調和が破れ、いらいらとした忿満が鬱積する。またに忿満が鬱積するばかりでなく、現実に狂暴な行動となって現れる。これが阿修羅の境涯である。狂暴な行動の一過した後には、やりきれない後悔と生きの消沈とが訪れる。愚にもつかない繰り言をならべながら、やや人間らしい小康状態を保つ。これが人間の境涯である。しかいこのような小康状態も長くはつづかず、人間はほんのつかの間の小康状態を自分自身の努力によって獲得した理想の境涯と思い込み、自分自身があたかも人間以上の理想的な存在ででもあるかのごとくに錯覚する。これが天上の境涯である。そしてこのように人間が現実を無視し思い上がり、自分自身を人間以上のものと錯覚するところから、現実と合致しない不当な欲求がうまれ、この欲求を充足しえない結果、人は再び最初の地獄の状態に突き落とされていく。(注2)

 この六道輪廻の考え方からしても、回り続けるのですから、きりがないのです。

注1:倉賀野 恵徳「意訳 蓮の露」山喜房仏書林 25頁
注2:西嶋和夫「仏教 第三の世界観 六版」金沢文庫 184頁~185頁



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