一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

般若心経(照見五蘊皆空 1)

2008年08月15日 | Weblog
 これから「般若心経」についてトライしてみたいと思っています。今日は「般若心経」の「照見五蘊皆空」について考えてみます。

 「空」は観念的に苦しみはないと思えばないのだ、とか今見えているものは本当は見えていないんだの次元で理解しようとすれば、絶対無理のある考えだと思います。

 わたしは、「空」というのは宇宙というジグソーパズルの自分を取り囲む八つのピースでできた空間に自分のピースがぴったりとはまった状態だと思います。そのときは胃が正常に働いていてくれるときは胃を忘れているように私たちも自分を忘れています。それが「空」ではないでしょうか。

 「正法眼蔵 授記の巻」にも、「おまえは仏である」という保証が与えられるのは自分自身が現に身心をおいている現実と一体になった瞬間にささやかれると書かれています。私たちが普通考えている善いことをやったり、やれるようにになった時に「仏である」とささやかれるように思いますが、そのようなことは書かれていません。善いことをやったり、やれるようになるのは、現実と一体になった結果ついてくるものです。

また頼住光子「道元」にも次のように書かれています。

 「真の主体性は、日常生活における自己同一的に完結した自己のレベルにおいてではなく、自と他が無文節な全体をなす『空そのもの』への自覚的還帰と、そこからの現成を通じて、動的に保持されるものなのである。このような自覚点としての『有時』こそが、日常世界における自己完結性から解き放たれて、世界との一体性を回帰する一瞬『而今』なのである。」(注1) 

 他に「空」をあらわす表現としては、自分が目の前の世界と完全に一体となったときに感じられる安心感、究極の本当の自分としての感じ、生まれてくるまえのふるさとに帰った感じです。

 また「正法眼蔵」全編はある意味からすれば、殆どこの問題だけの参究に費やされたと解することができる、と言われている問題『主観と客観の接触、交叉の実存的な場、実存的な時間観』も、「空」は何かというヒントを与えてくれていると思います。これは主観と客観の接するところでないと「空」は存在しないということになります。パズルピースがぴったり合わないと接触はないのですから。

 「空」は宇宙のジグソーパズルに自分のピースがぴったりとはまった状態なのでこの二つの要素に迫ってみたいと思います。

 一つ目の宇宙のジグソーパズルに迫ってみます。

 宇宙のジグソーパズルは全部のピースをつかわなければパズルは完成しません。一部のピースだけではまったく意味がないのです。宇宙の場合は一目一目にジグゾーパズルのピースが変化するので一目に全ピースでパズルを完成させなくてはならないので、一目で全体を観なくてはなりません。各々区切ってとらえていては、一目に全体を観れません。

 「正法眼蔵 坐禅箴」に『非思量』という表現が古来坐禅の本質を表すきわめて重要な用語として「正法眼蔵」の中でもしばしば語られます。この考えるとか考えないを超越した『考えることではない』‘世界’というのが、上記の一目に全体をみることです。

 目の前に展開する世界を個々としてとらえるのではなく、全体として世界を体得すること、直観的に把握することです。何言っているのだ、私たちはリンゴでも見える側しか見えなくて、裏は見えないだろうと考えますが、そういう感覚器官ですべてがとらえられるという意味ではなくて、身体が全体をかんじとるというとらえ方です。全体とは、目にみえるもの、耳に聞こえるもの、肌で感じるものはもちろんですが、自分でも意識できないもの、感覚器官でとらえられないものまで含まれます。

 二つ目の自分というピースに迫ってみます。

 自分というピースは自分をとりまく8つのピースかたちによって決まってしまいます。自分で自分のかたちはきめられません。頼住光子「道元」のなかにも「自己」について次のようにかかれています。
 『見られる対象の成立が、同時に見る「自己」の成立なのである。』『全存在が一つの全体という結び合い、連関をなしているなかでの、すばらしい一つの全体のなかの一つの存在として他との関係によって決まっていく「自己」である。』(注2)

 そしてまわりのピースによってきまる自分というのは「本当の自分」です。「本当の自分」は生まれた境遇、環境、受けた教育、ならった風習、してきた習慣、生きてきた経験、その他すべて偶然的なものの寄せ集めの自分を解体した「本当の自分」です。透明、正気の自己に帰ることだといわれています。解体してなければまわりのピースによってきめられたかたちに合わせることができません。

 「正法眼蔵 阿羅漢」に次のように書かれています。

 「己ガ力量ニ随ッテ受用シ、旧業ヲ消遺シ、宿習ヲ融通ス。或ハ余力有レバ、推シテ以テ人ニ及バシ、般若ノ縁ヲ結ビ、自己ノ脚跟ヲ錬磨シテ純熟ス。」(注3)

 阿羅漢(修行の完成者)は古くからの癖を消滅させ(旧業ヲ消遺シ)、長い間の習慣を解消する(宿習ヲ融通ス)といっています。

 ですので「正法眼蔵」にははっきり「本当の自分」というのは寄せ集めの自分を解体した自分であると書かれています。

注1:頼住光子「道元」NHK出版 99頁
注2:頼住光子「道元」NHK出版 参照
注3:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第六巻」金沢文庫