一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

念念相対セ不

2007年11月04日 | Weblog
 「正法眼蔵 海印三昧の巻」に次ぎのように書かれています。

 「前念後念、念念相対セ不」
 過去の瞬間も、現在の瞬間も、未来の瞬間も、それぞれ独立であって、前と後とが見合って相互関係があるというふうな形のものではない。

「前法後法、法法相対セ不」
 過去における現実も、それからのちに生まれてきた現実も、それぞれがその瞬間瞬間における現実であって、実態と実態とがお互いに見合って相互関係があるというふうなことではない。(注1)

 アニメの原画は一枚一枚全く前後の画とは独立していますが、パラパラと速くめくるとつながっているように見えるようなものです。これは考えを追わないで瞬間瞬間の直観の連続ということになります。私達の細胞が分子レベルで瞬間瞬間に分子を毀して動的平衡を瞬間瞬間に再構築しているように私たちの念も瞬間瞬間に毀して平衡の再構築を行うことを「正法眼蔵」では言っています。人間以外は猫でも他の生物はすべて瞬間瞬間の直観で行動しています。
 相対してないと、嫌な人でも嫌なことでも理論上は我慢できるようになるということです。目の前の人の嫌さが2だとします。相対していれば、2に次ぎの瞬間の2を足して4になります。また次ぎの瞬間に2を足して6になって、際限なくその人が嫌になります。でも、相対してないとすれば、嫌さがいったん0になって、次ぎの瞬間にまた2ということで永遠に0か2ということになります。
 また、何か欲しいものがあったとします。相対していれば欲しさが2で、次ぎの瞬間の2を足して4になります。時間がたてば欲しさが大きくなります。でも、相対してなければ、いったん0になりますので、次ぎの瞬間には0か2のままです。
 仏教に‘六道輪廻(りくどうりんね)’という考え方があります。‘地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上’の六つを指します。人間が仏教的真理を体得しない場合、因果関係の連鎖に操られて、この六つの境涯を経廻ると主張されます。地獄とはこの世が思い通りにならない苦しみの境涯をいう。そしてこの苦しみの境涯にあって欲求の充たされないままに生活していくことにより、欲求はさらに高まり病的に昂進する。この欲求が病的に昂進した状態、これが餓鬼に境涯である。かくて餓鬼は充たされぬ欲求の充足に狂弄する。これが畜生の境涯である。そしてこの畜生の境涯における欲求の無秩序な充足は人間の真心にも決してよい影響は与えず、身心の調和が破れ、いらいらとした忿満が鬱積する。またに忿満が鬱積するばかりでなく、現実に狂暴な行動となって現れる。これが阿修羅の境涯である。狂暴な行動の一過した後には、やりきれない後悔と生きの消沈とが訪れる。愚にもつかない繰り言をならべながら、やや人間らしい小康状態を保つ。これが人間の境涯である。しかいこのような小康状態も長くはつづかず、人間はほんのつかの間の小康状態を自分自身の努力によって獲得した理想の境涯と思い込み、自分自身があたかも人間以上の理想的な存在ででもあるかのごとくに錯覚する。これが天上の境涯である。そしてこのように人間が現実を無視し思い上がり、自分自身を人間以上のものと錯覚するところから、現実と合致しない不当な欲求がうまれ、この欲求を充足しえない結果、人は再び最初の地獄の状態に突き落とされていく。(注2)
 人間は前念と後念が相対していれば、考え事を追っていけば、‘六道輪廻’の境涯を廻らなければならないことになります。
 でも人間は考え事をしないで、瞬間瞬間直観で行動しろといわれても、アタマが付いている以上、意識ではできません。それを可能にするのが行で坐禅です。0か2でいたいならば、アタマから体に向かうのは不可能で、体からアタマに向かうしかありません。

注1:西嶋和夫「正法眼蔵提唱禄 第六巻上」金沢文庫 21頁
注2:西嶋和夫「仏教 第三の世界観 六版」金沢文庫 184頁~185頁

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