一主婦の「正法眼蔵」的日々

道元禅師の著書「正法眼蔵」を我が家の猫と重ねつつ

般若心経(受想行識亦復如是2)

2008年09月25日 | Weblog
 前回のブログで「受想行識」も「空」であり、あらゆるものと関係し合うことによって初めて現象として成立していると書きました。

 私はこのことを猫に教えてもらっています。猫は個々に焦点をあてるのではなく、目の前の世界を全体でとらえています。たとえば、どんなに楽しくねこじゃらしで遊んでいても、少しでも変な音がすればパッと基本姿勢に体勢を直します。猫じゃらしだけをみているのではなく全体を体で感じています。

 「正法眼蔵 弁道話」に次のように書かれています。

「群生のとこしなえにこのなかに使用する、各各の知覚に方面あらわれず」(注1)

 (一切の生物が自分を受けとり使い切っているとき、狭い視野でものを見てない。無限大のひろさの世界にすんでいるわけだから、その無限大の大きさで物事に対処している。)(注3)

 自然界のものには、もともとこのあらゆるものと関係し合っている全体をとらえて、その関係によって今一番何をすべきか、何を言ったらいいのか、どのくらい食べたらいいのか寝たらいいのかと、頭をつかわなくてもわかる能力が備わっているのだと思います。それを全体でみないで個々に区切ってみるから、全体が消えてしまって自分が何をしたらいいのかわからなくなってしまってしまっているようです。

 人間が本来何の造作をしなくても、自分のしゃべりたいことが自然に口からでてくることが「正法眼蔵 弁道話」に次ぎのように書かれています。

 「この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし、はなてばてにみてり、一多のきはならんや、かたればくにちみつ、縦横きはまりなし。」(注2)

 (自分自身を捕まえて、自分自身をつかいこなす境地というのは、坐禅を実際にやってみなければ発現してこないし、体験しなければ自分のものにならない。うまいことしゃべろうとしないで造作を放せば、そういう境地が手の平に一杯になり、自分のしゃべりたいことが自然に口からでてくる。)(注4)

 私たちも含めて自然界の「受想行識」は自分で作るのではなく、あらゆるものとの関係において決まるので、つかもうとするのを放し、手のなかに満ちてくるのを待つことに鍵がありそうです。

注1:西嶋和夫「現代語訳正法眼蔵 第一巻」金沢文庫 11頁
注2:同上
注3:同上 13頁参照
注4:同上

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